草刈山

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村内の明山は村民共同利用の山であり、「村の惣山」と呼んでいる。家作木・田畑の肥料の柴草・秣(まぐさ)の採取地で、農業生産と生活維持の上で重要なものであった。江戸時代田の肥料は馬屋肥が主であり、秣と共に草は大切であった。村の里に近い山の大部分は草山であった。草山は雑木を除き、よい草が生じるように長い間培って、手入れの結果草山となるのである。このため毎年三月中に村民総出で草山焼を行い、その灰が肥料となってよい草が育つのである。草山焼は、焼畑と同様山火事の起因となるので、古くから厳しく取締られていたが、特に享保の林政改革後は一段と厳しくなり、その都度福島役所に届出、役人立合の上で、庄屋・組頭を始め村民総出で行うことになっていた。山口村の草山届出を掲げると次のとおりである。
      覚
 馬小屋
  草山  一圓
 右ハ今般草山焼候義、御厳重被仰付候ニ付、御立合御出張御願申上、私共村中人足召連罷出御案内仕、御停止木続等ハ、猊又入念焼切仕、夫々焼申候処、御停止木聊故障無御座候
    安政四巳三月                          山口村庄屋両人、組頭四人連印
   御奉行所
 草刈山の扱い方は、藩によっても異なっており、同一藩内でも村によって管理が異なり一定ではなかったようである。惣山を村入会としている村、部落単位に割付けている村、個人ごとに割付けている村など様々であったようである。割付基準は部落又は個人の持高や反別数に割付けている村が多かったようである。割付山は部落に最も近い場所の山を割当てたが、山の良・否の差異はあった。
 山口村の草山はどのようになっていたであろうか。草山の規約等基本的な文書が見当たらないので確かなことはわからないが、八重島文書(宮下敬三氏所蔵)の中に、文政一二年山口村百姓総代が湯舟沢村庄屋嶋田分左衛門にあてた「差出申一札之事」と表題の書状がある。この書状は文政一一年、これまでの草山の割当について問題が生じてきたので、湯舟沢村庄屋島田氏を取扱人に頼み、立合の上で問題の割当是正を行い、その結果の報告書である。これは草山を知る唯一の文書であり、草山の成立経緯を知る上に、今後の研究のために掲げると次のとおりである。
      差出申一札之事
 一当村芝山十六年以前一同申合、人々割山ニ仕候処、場所柄宜敷所に少々過不足御差候而も、田地養い方行届キ候得共、至而悪場所ハ殊ニ坪数過不足も相見、段々一同相談仕去子年右一件ニ付、貴殿えも御苦労相掛ケ惣山割直シニ相成、村中一同納得仕、何ケ御取扱被下、御上様え茂御達シ御願被下村方より一統取極之一札をも差出、御上表も相済、然所篤ト勘考仕候処、先年割山ニ仕候節も数日相掛り、此度ハ反数・割石(こく)色々相定置候得ハ、山割方も日数多相掛リ候趣、右ニ付申合先割山ニ願人数又ハ至テ難渋之者ニハ、村方役人衆并村惣代差加リ自分を以、上山之内ニテ夫(それ)々増山を仕り、上山ニテ不足之分ハ下山之内割渡シ置候外、年々村中入合ニ芝取来リ候分ニて三ケ所見定、上山不足之分え差加え候趣、今度村中納得仕、当時三、四ケ年見合哉一統不都合之儀も御座候得ハ、先取極之通り惣山割直ニ可仕候、惣方都合宜敷相納リ候ハハ其節御上様え御達シ被下置御見分御願可被下候、其節永久相定可申候、今度右之趣村中納得相違無御座候間、御上様え御達シ御願宜敷御取扱奉願上候、依テ一札如件
    文政十二年丑十月                       山口村御百姓惣代
    御取扱湯舟沢村庄屋                               栄蔵   外三名
      島田分左衛門殿
 右之趣一同相違無御座候、何分御上表御達シ御願宜敷奉願上候以上
    丑十月                             山口村庄屋 楯平左衛門
                                          組頭
右の文面によると山口村では、古くから惣山村入会として草の採取をしてきたが、文化一〇年割山制にした。その様子をみると次のようになる。
1 文化一〇年(一八一三)村中申合せによって、惣山のうち一部を村民に割山とした。この割山は、後天保年代の八重島組の「柴数覚帳」によると、個人割でなく組単位に割山をしているように受取れる。そして組の中で個人個人の採取量を束数で定めている。この様子からみると組に割付した山は、組内の反別・年貢高を基準にして組毎の山面積を出し、個人別の採取量を束数で決めたのである。
2 このようにして採取してきたが、草の不足する組が出てきた。
3 一六年後の文政一一年に至り、村中相談の上湯舟沢村庄屋島田分左衛門を取扱人として立合を頼み、草の不足する組の割山の是正をすることになった。割山の算定方法として反別・石高数を調べ、それを基礎にして割直をすることも考えたが、前回の文化一〇年の割当の時に日数が多くかかり難儀であったことから、草不足を申し出て割直を希望している難儀の者の分だけについて、村役人・百姓惣代立合の上、見当によって面積の増加をすることにした。下(げ)山の割山を持つ者で不足する者には、上(じょう)山のうちから増加し、上山の割山で不足する者には、下山のうちで追加することにした。こうして村中一同納得したが、将来の予備のために外に村中入会の草山三ヵ所を見定めて、山不足が生じたときにはこの山のうちから追加することを定めた。
4 この是正によって村中は納得したが、三、四年は様子を見て、村中不都合が生じたときには、抜本的な惣山の割直をすることとした。
5 今回の割山是正によって村中納得したことの報告と、将来不都合が生じた場合には永久的な割山の定方を取る旨役所へ申達されたいと、取扱人島田分左衛門に願い出た。