(表)第26表 [自天保9年 至慶応元年]山口村八重島組柴草採取数
(註)万延元、文久二年は記帳がない。
元治元年に割山が惣山に吸収された。
そして八重島文書のうちに「天保九年戌年閏四月十日柴数覚」と表書の小帳がある。これは天保九年(一八三八)から慶応元年(一八六五)に至る二八年間の八重島組の刈取柴数を記録した帳である(第26表参照)。これをみると天保九年から文久元年までは、割山で三日、惣山で二日採取した個人ごとの採取量が「把」で記録されている。なお天保九年の採取数を掲げると第25表のとおりである。
天保9年戌年の草刈帳 (宮下敬三氏所蔵)
(表)第25表 八重島組柴採取量 (天保9年)
八重島組の割山は、きつね穴・あせぼ洞・戸屋場であった。そのほか惣山のうちで二日採取してきた。柴数帳の文久元年の記事をみると「惣山無く割山ニ相成り、元山あせぼ洞・戸屋場四月廿四日より廿七日まで、二三三六把」と記しており、そして新山「古場(こじょう)・志での木・さるそ」で六二七把とある。この記事によるとこれまでの割山と新しく割山になった惣山の新山の両方で採取している。この新山の割付は、後に掲げる慶応三年の「差上申一札之事」と頭書の一札の中に「此度惣山反石ニ銘々ニ割付」と記しており、文久元年に反別・石高に応じて割山になったことがわかる。草山は長期間の間には、場所のよしあしや草のよしあしなど種々の問題が生じ、相互間の公平を期するため場所替による割付替が行われている。これらのことは村の規約に定められていたと思えるが、規約が見当らないので確かなことは知ることが出来ない。割山になって田植前には「口明け」の日を定め一斉に入山をして、刈取りをした。これはよい草を我先に刈取ることを規制するためであったが、また他人の割山に刈込むことを防止する一策でもあった。しかしその後日には入込む者もあったようで、詫証文(始末書)が残っている。同様のものが三通残っているが、その一通を掲げると次のとおりである。
差上申一札之事
一此度惣山反石ニ銘々割付、依之若シ少々たりとも盗苅致候者見付候節ハ、御締りとして過料壱両弐分御取立可申候筈ニ而御会所より右之趣村方一統え、堅被仰渡候処、此度私儀草山盗苅取致候処、見顕ハれ候而誠ニ以当人ハ不及申に親類組合之者迄、一言之申訳も無御座候、無拠(よんどころなく)御役人衆様御頼種々御断奉申上候処、中々御勘弁も難成ニ被仰聞御座候処、然共此度之不調法厚御憐愍を以、早速御聞済被成下、千万難有仕合ニ奉存候、依之以来之義ハ親類組合之者共、急度引請右躰之不都合筋、毛頭少茂為致申間敷候、為後日仍而如件
慶応三年卯七月 当人署名印
御会所 外親類、組合請人七人連署印
右の一札の日付は、七月になっているから馬草用の干草刈りに入込んだとみられる。過料一両二分は、当時の相対上人足賃の二二日分に相当するから、かなりの重罰であったことがわかる。