山論の年表

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山論というのは、他村の山に侵入して伐木や草苅をすることから生ずる争論をいう。山論は中世代からあったとされるが、一般的に各所にみられるようになるのは、江戸時代の中期ころからといわれる。
 山口村・馬籠村での山論がわかるのは、外垣庄屋留帳・大黒屋日記の記事でいずれも幕末期の事件である。右の両帳から掲げると次のものがある。
(表)
 右表により山口村・馬籠村の山論を年代順にみていくことにする。
(1) 正徳二年二月馬籠村が妻籠村から家作材供給の一件
 馬籠山には家作材を採取する山が少なく、妻籠山から供給を受けていた。必要なときにはそのたびごとに申し込みをし、承諾を得て伐り出し、男埵滝上の大道まで出して、下り谷番所の改めを受けた上で、引き取ることになっていた。正徳元年の冬、峠佐七の家作材搬出のとき不都合があったとして、今後は供給を停止すると抗議をうけた。それについて馬籠宿の問屋・年寄が再三断りを入れ、以後次の事項を守る誓約をして一札を入れ、これまでのとおり供給をうけることになった。誓約条項は次のようになっている。
 一家作木必要なときには、その都度申し入れ承諾を得ること。
 一男埵上の大道まで出し、下り谷番所の検査をうけた後、馬籠村に引渡すこと。
 一東山からの家作木はその都度申し出て、そのほかの木草は切り取らないこと。
  西山からの薪は従前通り切り取りを認める。
 一停止木、留木は東山・西山共に切取りは一切禁止する。
 一「橋用木」と札の立っている木は、一切切取りは禁止する。
 一男埵山の留山、大あんこ、小あんこ山から切取りは一切禁止する。
(2) 天保九年六月山口村百姓妻籠村山草刈入込の一件(差出申一札之事、宮下敬三氏蔵)
 右の件に付いて山口村百姓が妻籠村百姓あてに差し出した証状によると、六月山口村の百姓八名が妻籠村控の草山に入り、草を刈り取っているところを見つけられ、証拠として馬の鞍八掛を取られ、村に抗議するといわれた。事が表沙汰になっては一同難渋するからと、段々詫びたところお互の間で済ますということになって、馬の鞍を返してくれた。そのお礼として金一両二分を出して落着した。
(3) 天保一三年八月馬籠村の者妻籠草山入込の一件(大黒屋日記六番)
 大黒屋日記の記事を掲げると次のようである。
 七月二六日あら町の者妻籠山に入込み、妻籠宿の者に馬の鞍を取られて帰った。
 八月二日町年寄蜂谷源右衛門、同利助、組頭宇右衛門が妻籠宿に掛合に出ることを決め、交渉の結果鞍を帰さぬときは役所に訴えることにした。
 八月三日右の草山一件に付、庄屋嶋崎吉左衛門、町年寄蜂谷源右衛門、同利助、組頭宇右衛門、百姓代文作、あら町清八、峠にて一人計八人が掛合に出立。
 同日干草山口明であったが、妻籠山争論中であるから個人の控山のうちで刈取るよう指示。
 八月七日島崎氏ら一行八人妻籠より引取。
日記の記事はこれで終っている。結果はわからぬが落着したように思える。
(4) 天保一五年三月山火事とその後の山境立直しの一件(大黒屋日記七番)
 大黒屋日記天保一五年三月六日、七日の条に山火事の記事がある。
 三月六日延火
 同七日山火事にて青野原山焼切り并に山口村境見分、夫より妻籠山入会場所延火、宿方草山七平上まで焼失いたし候に付見分いたし候
 同八日右妻籠草山延火御見分内々御願申上度義に付、幸(さいわい)福島西役所中村半平殿山口村に御逗留に付組頭源八郎罷出内願御願申上る
右の山火事で延焼した山口村山境の確認はそのままになっていた。
 七月七日山口山境の一件に付組頭平兵衛境杭の義に付引合に出掛ける。
 同月八日山口村より境杭暫見合呉様頼に付、組頭鎌蔵参り寄合評議の上盆後まで相延ばす様申遣す。
 同月一八日山口村草山境、両村役人中并に百姓中召連境松に出合、夫より両村共馬小屋迄上り見分の上、両村納得にて当時仮りに境杭相立、暮合に引取申候、尤見通境の義は村方に書留控置候。
 然る所山口村草刈馬廿疋程参り右入合の場所にて草刈取候に付、当村百姓中右刈取候草馬より落し、両村百姓中口論に相成り滝が沢根先にて大喧嘩に相成候、尤山口村不調法と申事に付、右の草山口村にくれ遣候
 山口村にはこの記録は見当らない。この仮境杭を立てた入会場所が六年後の嘉永二年に境界をめぐって大騒動を引き起こすことになる。
(5) 嘉永二年六月より翌三年一月に及ぶ山口村と馬籠村草山境争論(大黒屋日記拾番・拾壱番外垣留帳嘉永二年)
 この争論の発端は、前項に述べた天保一五年三月青野原山から延焼した山口村山境の仮境杭を両村納得の上で立てたが、両村百姓中の認識齟齬から端を発し、訴訟に発展し、湯舟沢村庄屋島田耕作・妻籠宿年寄原佐左衛門を取扱人として争論解決を図ったが、両村の主張は平行線をたどり紛争に紛争を重ねた。翌三年一月に至り妥協案を呑んで境界線の設定を見た。この一件のいきさつは大黒屋日記・外垣留帳に、日を追ってそれぞれの立場で記録されている。長くなるが要略して経緯を掲げると次のようである。
 六月一二日(大黒屋日記)たんどめ馬籠控の内へ山口村の百姓三百人余が入込み、勝手に草刈取をしたので、山口村の刈取った草を馬より落し、たんどめの場所に積んで置いた所、山口村の者大勢にてその草を山口村に持帰った。
 一三日(大黒屋日記)朝当村百姓半七伜半十ほか女共がたんどめにて刈取った草を、山口村百姓中無法にも奪い取り、たたき合いになるところであったが、山口村の者大勢にて手におえず怪我などしてはと思い、刈取った草は山口村の者に渡し、から馬にて早々帰った。このことを五人組の者が知らせてきて、なんとか勘考してくれというので、宿方に居合せた三右衛門・源八郎相寄り相談したところ、山口村の方は大勢徒党を組んでのことであるから簡単に鎮まるとは思えないが、無法理不尽のことであるから宿方に居合わせた者を差遣し、目明弥平に申付けて山口の者刈取った草はその場に積んで置く様に伝えさせた。庄屋島崎吉左衛門と相談し、山口村庄屋中え手紙を出し、草山へ源右衛門・又兵衛・宇右衛門を様子見届けに差遣した。双方相互に口論したが暮合に両村相談の上、引取った。
 同一三日(外垣留帳)夕方馬籠役人より書状到着拝見したところ、山口村百姓共たんどめ辺りに来て、馬籠草刈りの者を打擲、その上刈り取った草を奪い取った。山口村大勢にて馬籠百姓は難渋しているから、山口村からも役人を出して治めてくれるよう知らせてきたので、組頭久助、銀蔵を差向けた。馬籠方と口論もあったが、馬籠目明弥平が役人代として仲裁に入り今日のところは引取ってくれる様話があり、明日九ツまでに挨拶するということで引取った。山口村百姓の言い分は、この場所は先年より山口村にて刈取して来た場所であるから馬籠村が明日九ツまでに境立直し方について返答があればよいが、そうでなかったら右場所の草は全部刈取ると意気負い込んで帰った。山口村百姓が打擲したというが、百姓を調べたがそのようなことはなかったといっている。
 同一四日(大黒屋日記)山口村草刈一条に付、組頭源八郎・五兵衛・宇右衛門、五人組孫助・久助・祢平山口村へ掛け合いに出かける。本日馬籠村百姓の山へ草刈りに入ることを差留める。同日夜山口村組頭初太郎・忠右衛門・久助・大次郎四人本陣寄合席に来る。
 同一四日(外垣留帳)昼ころ馬籠村丸亀屋源八郎・あら町五兵衛・目明弥平が来て申すには、昨日馬籠草山へ山口百姓衆大勢来て草刈り取ったので、馬籠宿の百姓が山に出向いて口論となった。この後口論するようなことがあっては、お互いによろしくないから目明弥平が役人の代理として山に行き、明日境立直しをすると申し聞かせて置いたから、山口村役人において境立をするようにと申し込んできた。自分は非番であるので上村楯平左衛門宅へ参り十三人組頭呼び集め相談致す。その場所は先年よりの入会場所に相違なく、殊に右場所など減じ草刈取りが出来なくなっては、田地肥方も行届かず次第に田地もやせるようになっては、年貢・お役等も勤り難くなるので、何率先年の通り入合に相成るか、又は境木より石休ミ見通しに境を立てる様にされたい。そのようにならなければ肥もなくなるから、馬籠の返答により又山へ刈取りに行くことになるから、その様に取計らい下されと申すに付右のとおり馬籠村三人の者に回答をした。
 馬籠の者が帰ったあとでいろいろ相談したところ、馬籠宿の方で前のとおり入会にするか、又は石休ミ見通しに境立直にすれば百姓中も鎮まると思われるが、ただいまのとおりにてはなかなか承知しないようにみられる。隠便中(尾張藩主家蔵の忌服中)大勢が草刈りに入り争を起しては、お上への恐もあるから話がまとまるまでは、山に入ることを差留にしたいと組頭宮下初太郎・忠右衛門・久助・銀蔵四人の者が馬籠宿に使に立った。幸い本陣に役人一同寄合していたので、右の趣熟談したところ不承知との返事であった。聞き入れられなければ、役所に訴願するほかないと申したら「御勝手次第」との返事であった。四人の使いの者は引取り帰村した。
 同一五日(大黒屋日記)山口村百姓中境場所杭打の儀不承知の趣、先年仕来りのとおり惣山入会場に致し呉れ様昨夜お出なされた四人の衆より話があった。
 同一五日(外垣留帳)役人中残らず寄合、百姓中も残らず昼ころより寄合い、昨夜馬籠からの返答の趣を申し聞かせた。そして役人中相談いたし、草刈りに山に入り口論など出来てはいかようのお咎を蒙ることにもなるので相方とも草刈りに山には入られぬよう馬籠にも申し入れ了承された。
 百姓中の願を村役人が努力することにし、役所に訴願のため村役人と同道する百姓惣代を三人ずつ選出、上村にて又右衛門、金之助・民三郎、下村にて栄蔵・助七・又蔵の六人が決まった。
 訴願の趣旨は次のとおりである。
 六年以前(天保一五年)仮境相立後、度々馬籠へ境立直し方催促致候得共、一向聞入れこれなくに付、御百姓必至難渋相重なり、夫故右様相企致シ候歟と存じ奉り候、穏便御停止中の事故若後にて御咎も如何と心配仕り、殊更馬籠にて右山辺え草刈りニ参り候得ハ、前顕草刈取られ候ハ歎ケ敷ニ付、又々当村御百姓草刈ニ罷出候てハ、口論等も出来仕候得ハ相方共宜からず候間、先々此論事否哉相分り候迄は、馬籠ニ而も山論場所え草刈取りニ罷出申さぬ様御役所様御声懸御願申上奉るべくと御願ニ出ル
 一七日(外垣留帳)福島役所下役市川庄兵衛より書状来る。山口百姓馬籠控山に大勢入り草刈取ったこと馬籠宿より申達があった。三留野宿まで参りたるところ、まずまず一応鎮りたる由に付、馬籠へ越すことは中止したが、譬申立方があってもご大切な穏便中、大勢一同右様な場所に立入り、馬籠より談判に抱わらず理不尽のことである。いずれ始末は村役人一同示談の上取計らうよう致したいと思っているとのことであった。
 同日七ツ半ころ福島に行った桑蔵・銀蔵が帰村報告を聞いた。福島役所当番下条直蔵殿に願の委細申し上げたところ、お聞届になり、馬籠も右場所え草刈に出ない様申し渡したと言われた。急いで願書を認め願い出るよう仰せられた。
 二四日(同帳)山絵図作製に宮下初太郎と上竹只助が掛り晩方出来上り、平左衛門が願書縄張りする。福島持参の願書は外垣が認め準備は出来た。
 二六日(同帳)平左衛門当番組頭四人福島行惣代の者参り山絵図等見せ福島行取り決める。平左衛門組頭実助・久助・惣代の者助七・又右衛門二七日出立とする。
 二八日(同帳)福島行きの者野尻新茶屋まで行ったところで、道橋見分に出張中の福島役所荻野丈左衛門・下役千田伝十・加村覚右衛門にあい、願書等提出して出願し昼ころ帰村した。
 二九日(同帳)草山現地見分されるということで、当村庄屋両人、組頭残らず、百姓惣代の者五人、外に組下にて二人ずつ境木まで出迎え待っていたところ、夕立がきて中止になった。
 同二九日(大黒屋日記)山口村草山論所ご見分に付、案内役として三右衛門・源右衛門、組頭平十・中のかや五兵衛ならびに百姓五、六人昼飯済まし入会場所へ向かった。山口村よりも役人・百姓右場所へ立合すると聞いた。
 七日朔日(外垣留帳)昨日の通り人数召連れ、赤はげまで出迎えお待ちしていたところ、荻野様・下役千田伝十殿・加村覚右衛門殿、馬籠宿役人蜂谷源右衛門・組頭平兵衛百姓中四、五人召連れ参られ、赤はげにて休息、それより境木え御出、これにて遠見、それより山登り栃洞横手にて休息、石休ミにて昼弁当にする。
 それより権現山までご見分、三ヵ村境お尋に付当村では石休ミ社三ツ境と申上げたところ、馬籠は糖こぼしに土塚もあり是社三ツ境の由と申上げた。糖こぼしというのは山口村でいう馬屋頭の由と申上げたところ、先年妻籠宿・馬籠両宿にて山論の節お上より渡された絵図面を妻籠宿役人佐左衛門が持参していて、右山に引当て馬籠にて申す糖こぼし三ツ境の様答えた。山口村にては意外のことで、百姓中よりも下役衆えお願い申し、妻籠佐左衛門に聞合せたところ、三ツ境しかと相分からず、妻籠老人で山境に委しい者を呼寄せ聞合せるのがよいということになり、当村百姓迎えに行った。それより荻野様下役衆引戻り石休ミ辺の様子を見分されていたが、山口村が申すとおり石休ミ社三ツ境に相違ないと評定決し、それより下の方見分に下りたるところ、馬籠役人中案内にて栃洞横手えきた。当村百姓中は大ひらあたまにて、峯より熊鷹石え見通しもよいから、ここにお出見分下さる様組頭両人お願いに参り、直に大平えお出見分なされているところへ、妻籠よりも百姓三人みえ、石休ミ社三ツ境に相違ないとお達し申し上げた。彼是致しおる中に夕方になり、両村より絵図面を提出させ宿方に引取られた。当村役人中全員と百姓惣代五人は馬籠宿え来て宿三浦屋に入った。夜半庄屋両人と組頭三人は福島役人の宿下扇屋に伺に出た所、酒宴の最中であった。取扱人の湯舟沢庄屋・妻籠宿役人の両人が山口庄屋両人の席に来て、下役加村殿より内々にて聞いた話であるが「馬籠にて境筋相違もこれあり、旦那も少々御立腹の様子であるが、石休ミ境木の見通し境相立候義相違これなき趣、併し乍ら耕作・佐左衛門両人が取扱いの事故、少々勘弁も致さずば両村とも相調いがたく候間、その心得ある様内々申し聞かされ候に付、委細畏り候趣申達し何分宜敷頼置、千田殿よりも勘弁致す様申し聞され候」ということであった。加村下役からこの内意の節は千田殿は同席ではなかった。そして宿へ帰っている所へ耕作・佐左衛門両人が来て申されるには「今般山論の義表立御裁許に相成候ては相方とも意魂が残り、甚宜からず候間私共両人に取扱役仰せ付られ候、附ては不審の私共なかなか理非相分りがたく候間、取扱いとは申しながら旦那の内意を承り取り計い申す候間、私共に御任せ下る哉、又は本裁許訟申すべく御了簡哉、何分和熟相調ひ候得は相方とも宜敷候間、右の段馬籠にも談判致置候間明朝迄に御挨拶承り度由申聞候」ということであった。そういうことであれば山口もよく相談して明朝までに回答すると頼んだ。
 同朔日(大黒屋日記)山口村入会草山境場所御見分に御出成されたのは、御役所荻野様・下役千田伝十殿・加村覚右衛門殿外に一三人
 右場所へ御立合として妻籠宿年寄原佐左衛門殿、湯舟沢庄屋耕作殿
 村方出張吉左衛門義は御作事奉行御入込に付御断申し上げ、名代禎三郎出張、三右衛門・源右衛門、組頭平兵衛
 百姓惣代新七・太十・半七・伊助・市左衛門、小回り弁当持源蔵・道之助・久六・新作・半次郎、阿ら町組頭五兵衛、百姓惣代孫市〆一六人程参る。
 山口村組頭大畑桑蔵昨夜当方に泊り御案内申上げる。山口村より庄屋両人、組頭并百姓中五〇人程参りたる様子にて暮合山より下り山口村の者三浦屋八之助方に泊り、それより追々掛合に入る。佐左衛門殿・耕作両人にて取扱う様荻野様より仰せ付けられた。深更に及び両村とも引取った。
 同二日(大黒屋日記)山口村草山論妻籠、湯舟沢ご両人にてお取扱下される様子、内々にて荻野様より私え申し聞かされた一条を両人にお話して置いた。それはいずれ、峯境を半分にいたし栃洞根から石休ミえ見通し、それより境木へ見通しになる様になるという内意であった。山口村役人・百姓一旦村方え引取り、百姓中と相談の上回答するということであった。
 同二日(外垣留帳)相談相決方取扱の衆へいずれともお任せ申すと申上げて置いた。昼ころ取扱衆から、庄屋・組頭・百姓惣代衆とも米屋へ集まるよう通知をうけ出頭した。耕作殿・佐左衛門両人から次のように言われた。「石休ミより熊鷹石見通しの義は荻野様も至極よろしいからその様に境立し、馬籠にていう糖こぼし仮境より、境木へ見通し合境立て、これを両村の入会に致す様内意があった。但し入会等むつかしいというなら、右の分を二分して両村が取るようにせよ」という荻野様のご内意であると申し聞かされた。
 私共一(ひと)先づ旅宿三浦屋に引取り相談の上返答申上るとして相談したところ、片入会であるが荻野様のご内意に従った方がよいと思うが、当方の山であることは間違いないから少しでも余分に貰うように申し入れた方がよいということになり、権現山より石休ミまで四町三〇間の半分当方に貰いたいと申し入れた。ご両人は「中のダオより入会境立ててはどうか申され、馬籠に掛合の上返答すると申された。山口村百姓中様子見に来たので右のわけを話したところ、百姓中相談し、それは片入会であるから馬籠分も入会にしてくれるか、又は石休ミより熊鷹石に見通しに本境立てて呉れと申達するので、組頭と百姓惣代相談したところ、今度は荻野様のご内意に随うほかないと決し、百姓中に理解を求めたが聞き入れず帰村してしまった。
 同三日(外垣留帳)取扱人耕作・佐左衛門両人より庄屋米屋に参るよう通知あり庄屋平左衛門が出頭したる所、「馬籠には確かな絵図面がある様子、貴村に確かな證拠となるものあるや」と尋ねられた。宿に帰り相談したるも山口村にはそのような確かなものはないので、外垣、平左衛門、組頭久助・桑蔵、百姓惣代又右衛門・助七米屋に参り、「当村には確かな証拠となるものはないが、石休ミより熊鷹石まで三ツ境直すぐに見通しのこと故、これらが確かな証拠ならずや、馬籠宿の証拠は如何様なるものであるか」と尋ねたところ、寛政年中に福島へ差し上げた絵図面に「青木」があり、荻野様も青木に本境が決した様子ご内意があった。取扱の衆が福島役所より借受、米屋に持参、自分共も披見したところ成程木の様なるものが青く認めてはあるが、青木とも山口・馬籠境木とも記入はなく、余り確かな証拠とは思われず、これを青木とか境木と決められるなら証拠ともなるが、一向にそうとは思えないと申し入れた。取扱人妻籠佐左衛門が申されるには、寛政年中お上へ差し上げた節、お上にて確認された事であるから動くことはない。また荻野様の考えも青木境に決まったことだから、どういたしても動くことはない。よって権現山から石休ミまでの間、青木まで入会にするよう馬籠宿より頼みがあり、これは四分・六分位の取り扱いになってもよく、取扱人に任せるといっている。それについて本境は青木とお上の考えが決まっているから、山口村がよいということなら入会の所はなくして本境を決めるがどうか、回答されたいということであった。自分達の考えだけでは回答は出来ないから村に帰り百姓中と相談の上申し上げると答えて引き取った。
 宿に帰り常套案を巡すところ、二日夜まで青木境など一度も出なかったのが、翌朝に至り青木境と治定に相成る事少々疑わしく思われ、誠に片手落のご裁許と受けとれる。直に支度し山口に帰り、百姓一同に話し理解を求めたところ、昨日まで石休ミ熊鷹石見通しに境立することに決り、馬籠糖こぼし仮境より境木までの間入会とすることを不承知ながら承諾したのに、またまた今日に至り左様な無理なご裁許には服し難いから、先日のとおり石休ミから見通し熊鷹石までの境相立られるよう、たとえいかなるお咎を蒙ってもよいから惣代の者に申達してくれるように迫った。村役人としては、事ここに至ってまたそのような願出は出来ないから惣代の者から願出るよう申し渡した。
 庄屋組頭相談の上、今日荻野様三留野までお越のところ、無理にお留申し置いたのであるから、今晩の内に取扱衆までお達しなければ相済まぬことになるので、夜九ツ(一二時)出立八ツ半ころ馬籠米屋に着、就寝中を起して取扱衆に取次を頼み、報告依頼をした。「直様村方に帰り百姓中に理解を求めたが、なかなか承知しないので報告に来たが、百姓中がこのようにいきりたっては、お上ミのお怒りもあると思うから、取扱衆の働で百姓中を説得願いたい。百姓中一三人許り願の節があると出てきている」と頼込んだところ、耕作殿は「いずれにしても、お前方には迷惑をしている。もはやお上ミの考えは青木に決まっているから、百姓中がそのようにいきりたっては、ご立腹になるのはわかりきっているからなるべく静める様にすることが肝要である。この上強いて願い出ては強訴になり、先日大勢が出て草刈取したのは徒党体に当り、村方においても七、八人は追放の者も出ることになり、その様な事になっては困るから、米屋に願出に来ている百姓一三人にはまず私共(取扱人)から理解するよう申し聞かせる」と申されたのでお願いして直に村方に帰り、再び小前の者に「境の決定はお互の決められたことで、押し付けることになるが従うよりほかないから頼む」と諭し頼み置いて、直に馬籠に引き返し三浦屋で待っていた所へ、願い出に米屋に出ていた百姓一三人が帰ってきた。私はすぐ山口に立帰り、取扱衆へ村方の百姓中にはなお重ねて境立の事を説諭取り計う決心でいるからよろしく頼むと再応頼入ったところ、石休ミより青木え本境を立て、権現山寄りの入会の方は断って入会なしにすれば、ここで治まり至極よろしい事になるから相談してみてくれと申越があった。馬籠へ願い出た一三人の者には今何を入っても聞き入れないと思われるから、荻野様三留野お泊りまでには、回答するから日延べを頼むと実助を使いに立て申入れた。
 三日(大黒屋日記)山口村役人、百姓中一旦村方へ引取って百姓中と相談の上、相答申すべく筈にて三日夕方残らず引取った。
 四日(外垣留帳)朝六ツ時馬籠より帰り直に上村に参り平左衛門とも相談致した所、藤十郎殿とも相談し相携えて百姓一統の静め方に当ることしかるべしと決し、荻野様に回答の日延願に久助・銀蔵を三留野に遣し、取扱両人はまだ馬籠に滞留中であったから大畑桑蔵を遣した。百姓一同を宮に集め、なだめ静まるよう説得することにした。荻野様一行は妻籠に出張中と聞き、妻籠奥屋を頼み日延べを願い出た所二日斗りご用捨になった。宮にて百姓中をなだめていたところだんだん静まってきたので、荻野様に願い出ていた願書を取り下げることとし、明朝湯舟沢耕作を頼みに下竹幸兵衛を、妻籠佐左衛門頼みに桑蔵を遣すことにした。
 四日(大黒屋日記)福島より出張中の荻野様、お下役衆ともご出立になった。妻籠原佐左衛門も取引られた。山口草山一件暫日延相願い出たる事承知致す。
 五日(外垣留帳)幸兵衛湯舟沢より帰り、耕作殿三留野荻野様宿までお出下さることになり、馬籠まで一緒に来たと報告がある。
 五日(大黒屋日記)山口村草山一件に付三留野宿出張、佐左衛門殿より手紙至来拝見した所、島田耕作殿も出張致され、宿方役人の内一名、惣代一人召連れ出頭致す様通知があった。宿方は先に五兵衛出張したから同人を召連れ参る様通知あり、耕作殿同道、蜂谷源右衛門出張。
 耕作殿には今朝下町米屋利兵衛方迄出張され、役人中にもご内談致したく訳があり、よって利助・勝七・三右衛門・拙者(大脇兵右衛門)出席、お取扱いの儀、段々受合申し上げたる所、当村百姓中も諸事役人任せにて、彼是申出なかったから、右の段耕作殿に申談、いずれ詰る所は、境木より栃洞石え見通し、それより石休、ぬかこぼし両入会の場所にて七分山口村三分馬籠村草山に境相立る様、お取扱下さるべく申談した。しかし山口村役人中百姓共も不承知であるから、当村にても勘弁出来ないことを福島お役人方へお達し下さるよう申談する。
 耕作殿に付添い源右衛門出立する。
 六日(大黒屋日記)山口草山一件妻籠・湯舟沢お取扱にて、お役所役人は三留野宿お泊りにて、まずまず両村共願下げになり、荻野様お出立になりお取扱衆もお引取になった。入会石休ミの場所は佐左衛門殿尾州に出張中に付お帰りまで、相方とも鎌入れることは禁止にされ、境木より栃洞休石のある所は、相互に境が決まっているから草刈り取りをしてもよいとお話があった。まずまず一旦事済になった。
 七日(外垣留帳)平左衛門殿夜前三留野より引取、今朝聞いた所では山論の一件まずまず願書願い下げ、入会場所の儀は佐左衛門義呑込にて山口の分に致してくれる筈、間違いなく引受けてくれているが、名古屋表に出張したから帰りまでお預けになっている。
 八月朔日(外垣留帳)このころ原佐左衛門殿名古屋より帰宅、兼ねて相頼む山論の義、頼みに組頭銀蔵、賄役の者一人当月三日妻籠・湯舟沢両村に遣す。未だ落着及ばずに付酒三升ばかり土産ながら持参の筈。
 
 両村ともお互に主張を繰り返してきた境界論争は大筋においては石休―栃洞休石―青木―境木―熊鷹石見通しの線をもって境とすることに落ち付いたが、栃洞石より糖こぼしに至る入会場所山口六分、馬籠四分の場所に不満を残した。解決は取扱人佐左衛門に預け保留にして、ひとまず荻野丈左衛門に差し出していた願書を願い下げた。
 嘉永二年の記録は大黒屋日記は七月六日、外垣留帳は八月一日で終っている。