境界の設定

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嘉永二年の草山論争後も草山境界の設定がされないままになっていたが、翌嘉永三年一月二〇日取扱人湯舟沢村庄屋島田耕作より山口・馬籠両村立合の上、現地確認の上境界印(しるし)を立てるよう申し入れがあった。
 一月二一日(外垣留帳)本日取扱人両人より、両村役人・百姓惣代の者残らず境木まで登山するよう通知があったが、行違があり馬籠宿に集るよう変更になった。組頭幸蔵・銀蔵両人が馬籠宿に出頭し他の者は帰村した。組頭両人が取扱人より聞いた話では、石休辺四分、六分の割で入会ということには、馬籠村ではいろいろと異論が出たがこれを押え、その代り山口村では熊鷹石より境木―青木―石休に見通した線を境とするよう受諾するかどうか今晩中に回答するようにとの事であった。
 二二日(外垣留帳)宮下初太郎・忠右衛門・銀蔵・幸兵衛、百姓惣代の者馬籠宿に出向取扱人に熟談の結果、四分、六分入会の所は全部山口村草山にすることになった。青木の所は二四日に登山の上、栃洞横手石とするか、右の頭にある石とするか、いずれか見通しのよい方にすると申された。馬籠に出頭した者帰村し百姓一同に相談したところ、このように境が決まると中島上の所は馬籠山となり、この場所には馬道があって馬を引き通行していたが通れなくなっては困るから従来通り通行する事を申し入れるよう願いがあった。
 同二一日(大黒屋日記)雨、山口村より役人百姓中相見え、下町三浦屋に着の由聞く。まだ双方納得不行届に付境印土塚築のこと今日は中止した。
 同二四日(大黒屋日記)山口村草山境見分境土塚築村中残らず召連れ役人・組頭中罷り出境木へ相詰、それより向根先松の木へ見通し、それより三笠松へ見返しにこの度相改めの境立て、双方納得の上規定を決めた。
  立合人妻籠宿年寄原佐左衛門殿・湯舟沢村庄屋島田耕作殿、当村より庄屋島崎吉左衛門、原三右衛門・大脇兵右衛門・蜂谷源右衛門、組頭宇右衛門・平兵衛ほかに百姓残らず、山口村より庄屋楯平左衛門殿、組頭初太郎・忠右衛門・伊左衛門・鎌蔵ほか百姓中残らず、両村にて人数およそ二〇〇人余も罷り出た。三ツ境場所にて暮になり、境木より熊鷹石境土手までは行届かず、ようやく夜五つ時(後八時)引き取った。
 同二四日(外垣留帳)取扱衆両人並びに双方共山登り致し、境木より青木、それより栃洞頭の石にかけ石休まで見通しに境を立てた。熊鷹石まではその日に片付かず、また天気次第山登り致す筈にして帰った。
 同二五日(大黒屋日記)雨天に付境土手築は中止。佐左衛門殿帰村なさる。
 同二七日(外垣留帳)両村役人並びに取扱衆両人山登り、長吉岩辺に出合い境立の儀だんだん相談致したところ、長吉岩辺りの境界記録は馬籠絵図になく、山口にもなく確かなことは解らないので、取扱衆の意見に従い熊鷹石より境木見通しの線に境立することに双方納得した。村方に引き取ったのは夜四つ時(後一〇時)ころであった。
 同二七日(大黒屋日記)天気に付妻籠宿原佐左衛門殿・湯舟沢村島田耕作殿両人共ご出張下され、境木より熊鷹石へ見通し境を立てる。宿方より出張庄屋吉左衛門、禎三郎・三右衛門・兵右衛門・源右衛門・勝七、組頭宇右衛門・平兵衛・芳太郎・鎌太郎ほか村内百姓残らず。
  山口村より庄屋平左衛門・三左衛門、組頭中、百姓残らず登山。双方立合境立を納得決定するに付いては、いろいろと意見の相違があって夜になり、明松に火を点じて見通しを付け、取扱衆と相談の上得心して決定をした。山口村草山境見分土塚相済み、夜四ツ半ころ引取った。
 同二八日(外垣留帳)双方和熟によって境立が決まったので、規定書並びに絵図面等作成して役所に提出することになり当村より久助・銀蔵・仁右衛門・忠右衛門・幸蔵が馬籠に赴いた。
 同二八日(大黒屋日記)取扱人佐左衛門・耕作殿昨夜米屋利兵衛方止宿。
  山口村より庄屋外垣三左衛門、組頭一同参り双方境立し、規定書認め取扱衆へ差し出した。

嘉永3年2月 山口、馬籠村草山境取極図(山口村役場蔵)より作図

(6) 安政三年草刈馬道の紛争
 この紛争は「大黒屋日記拾七番」に、安政三年七月二二日から二六日にわたり記されている。この件はほかには記録が見当らないので、これによって要略して掲げると次のようである。
 七月二二日山口村百姓中が馬籠村の控地与吉小屋根を馬を引いて通り、滝が沢根栃原にて草刈りをしているというので、馬籠村の百姓中が駆けつけてこの道は、嘉永三年草山の一件後山口村の者が馬を引いて通行することは、禁止になっていると談判した。山口村の者は通行する承認を受けていると言い張った。
 二三日馬籠村百姓中は山から下りたが家に帰らず永昌寺に集まり、明方まで庄屋に示談する相談をしているところへ朝五つ時(前八時)ころ、山口村組頭南野忠右衛門と小牧庄兵衛の息子が来たので、昨日の草刈りの一件を掛合い、道を貸すことは出来ないと伝えた。そして庄屋にこの一件を示談した所、「道明通路」になっていたことがわかった。先に山口村から草刈りの間、この道を馬を引いて通行することを承諾してくれる様に申し込みがあり、庄屋と問屋の一存で道を貸していたが、町年寄や百姓中には知らせていなかったのでこの騒ぎとなった。誠に不都合な話であったが、今回のところは仕方なく認めたが、以後は差止めにすると手紙で山口村に通知した。
 二四日草山一件について山口村組頭忠右衛門、八重島初太郎両人が来て、先日以来の談判掛合をしたが、どちらにも言い分があり、今日のところは打ち切りいずれ当方より回答するとして帰ってもらった。
 二六日山口村草刈り馬道の一件に付、五人組の者にまで相談したところ、干草刈りの期間中だけ与吉小屋道を貸すことに納得の上決まり山口村に通知した。
 これをもって日記の記事は終っている。