この論争は馬籠村峠部落の者と湯舟沢村の者が、伝田原草刈山において相互の境界認識の齟齬から生じたものであった。「大黒屋日記廿壱番」の記事のほか記録は見当らない。「中津川市史」も年表に「馬籠村峠部落と湯舟沢村草山論(大黒屋日記)」と掲げているが、本文には取り上げていない。大黒屋日記の記事を要略して経緯を掲げると次のようになる。
七月二一日干草山口明となり草刈りが始まった。
二五日伝田原山で草刈りをしていた峠の者が、湯舟沢境に入り込み草を刈り取ったとして口論し、けんかになったとして、湯舟沢村から庄屋小兵衛、組頭惣代栄蔵・菊次郎三名が馬籠に掛合にきた。本陣で話合った結果、今日のところはひとまずお互に勘弁し合うように百姓中に申し聞かせることにし、境の確認は後日双方とも絵図面を持参して相談することを約して三人は帰った。
二六日昨日けんかの際峠の者が、湯舟沢村の者に鎌一五ちょう取られたというので、返却するよう手紙で申し入れをした。
二七日草刈りに山に登った峠の者と湯舟沢村の者がけんかになり馬籠村役人のうち源右衛門・源十・源蔵・善七が伝田原山に見に行き取り静めた。それより問屋茂太夫は善七・峠仁兵衛両人を連れて湯舟沢村庄屋宅に行き、種々掛合ったところ、伝田原焼切まで双方入会にし、最寄の百姓ばかりに草刈りをさせることとし、当村は峠の者だけを登山させることにし、双方口論をしない様にすることを約し、夜五つ時(后一一時)に引き取った。庄屋吉左衛門、兵右衛門寄合所で待受けている所へ、茂太夫らも湯舟沢村から帰り、峠の者もきて示談に入り、明二八日伝田原山入会場所見分することに決め、あら町・宿の百姓方にも話して解散した。
記事は中止していて入会場所の様子はわからない。
八月四日庄屋島崎吉左衛門、峠組頭仁兵衛は、草山論争を福島役所に出訴するため出立した。
日記の記事は中断しているが、出訴によって福島役所では穏便に解決を計るよう、取扱人を立てたようである。
九月一四日湯舟沢草山境決定に先だって現地見分のため、町役人、組頭、百姓共弁当持参で登山をした。
一五日湯舟沢村、馬籠村両村の役人、百姓共に境調に登山し、山論一件の取扱人として妻籠村林六郎左衛門、山口村組頭宮下仁左衛門が立合い、両村とも納得して境印の土塚を築く事になった。
一七日馬籠村百姓中が境場所決定に不承知と言い出して、湯舟沢村に掛合に出掛けた。
二一日取扱人林六郎左衛門、宮下仁左衛門両人湯舟沢村に出張される。
取扱人林、宮下両人が仲裁に入り解決を計っているようであるが、妥協は出来ない様子で、本年の日記はここまでで中断している。
翌文久元年の「同日記廿弐番」五月一九日に再び記事が出てくるが、まだ解決には至っていない。
五月一九日湯舟沢村草山論この度湯舟沢村より福島役所に出訴いたし、当村峠の某と下町某の両人が百姓惣代として呼出しを受け、組頭弥兵衛が付添い出頭したところ両人共直に牢舎を仰せ付けられ、八沢の牢舎に入牢したと弥兵衛から知らせがあった。そしてまた昨日馬籠の三人の者に名差しで呼び出しがきた。いずれとも大変なことになった。
二〇日庄屋、町年寄が付添いで呼び出しになり、源十郎、善七、峠仁兵衛が付添って福島にいった。
二三日湯舟沢百姓、組頭共都合八名が呼び出された。
六月二日草山一件について兵次郎が源十郎と交代に福島に立った。
六日福島に入牢中の者は調が終り解き放しになり帰村した。
七日役所の裁決が決まり馬籠村役人も帰村した。
両村とも訴願したので、役所の裁決を受けることになり関係者が呼び出され取り調べ中入牢となったのである。七日に裁決があり、境の取り決めについて指示があったようである。
一一日湯舟沢村草山土塚築立両村立合、取扱人立合、惣役人ならびに百姓小前の者召連れて登山する。
一四日湯舟沢山論土塚築村中一同登山、取扱人立合。
役所の裁決によって境場所が決まり、取扱人立合の本に土塚を築き一件は落着した。江戸時代の百姓にとって草山はいかに大切なものであったか様子がうかがわれる。草刈り山の存続は、田畑の肥料・馬の飼料として昭和年代の初期まで続いた。