豊臣秀吉の検地後は田畑に石高が付けられて、石高が領主の領有対象となり、領主から認められた農民の所持の対象も石高となった。石高は検地を受けた土地の表示であり、石高によって示された領有、所持の具体的対象は土地である。秀吉は、全国統一の戦闘の過程で多くの地方的領主を掃滅してその所領を奪い、また降服・臣従した領主の場合にも、その所領を大幅に削減して新領主を配置した。この場合旧領主層の領地との関係は、大部分の領主の場合切り崩された。また徳川家康も関ヶ原役、大坂冬・夏の両度の陣を経て、恩賞処罪を含む所領の交替を行った。この結果旧来よりの領土保全の領主は数える程になり、領主と領地との関係は著しく更新された。
徳川政権が確立すると、徳川氏は将軍の代替りごとに朱印状の交附によって、知行給与の関係を新たに確認しなおした。諸大名の所領は、全部が将軍家より知行地として給付されたものであり、一方的に取り上げうる性質のもので私物ではなく、将軍より預り物とも観念されていた。
知行権の内容である年貢の収取については、秀吉の治世の文禄四年(一五九五)に二公一民の割合が全国的に令せられ、本年貢の附加税とした「口米」についても、検地条令で「口米は年貢一石に弐升ずつ、其外役米一切出すべからず」と制した。年貢納入の際の枡を京枡に一定するなど、全国統一的な収取関係の確立を意図した政策をとった。しかし領主と土地の関係は、旧来からの本領地を引続き安堵した諸大名の場合は江戸初期時代には、旧来の制度そのまま変わらぬ所が多かった。