このように厳しい罰則を設けて永代売りの禁止を達しているのは、田畑をたやすく売り払わせないとする趣旨であるが、百姓は生活に差詰り年貢が上納出来なくなってくると、田畑を売り渡すか、田畑を質入れして金を借りるほか方法がない。そして金策がつかなくなれば質流地にする。結果は永代売りと同じことになる。百姓が所持する田畑を手放さなければならないということは、よくよくの事で禁令を超えてのことであった。
田畑永代売りの禁令は、数度の変遷を経ているが、江戸期を通じて存続して明治五年二月一五日太政官布告第五〇号をもって廃止された。
諸藩も幕令に倣って土地の永代売りの取締りを行っているが、実施時期はまちまちの様子がみられる。この地域の尾張藩・苗木藩領の村々においても、永代売りはかなり行われていたようで、元禄時代以降江戸時代を通じての証文が残されている。山口村・馬籠村とも証文が現存している。
山口村の証文に、元禄十七年(一七〇四)二月「川原田半田地権右衛門分永代売り渡シ申手形之事」、宝永七年(一七一〇)一一月「一敷半田地伝七郎控之内大喜田ニ而いなば田沼・麦田共ニ不残永代渡シ申手形之事」があり、以降享保、宝暦、明和など数多く残っている。早い年代のものには、土地の一部分の売渡しがみえるが、江戸中期以降のものは田地・家屋敷とも一括売渡しがほとんどである。享保年代から「年季」の語句を記入した質入れの型がみえる。
永代売渡しの理由は「御年貢並に前々よりの借金に差詰り」などと記したものがほとんどである。証文には売に至った理由・金額、売買対象となる字地名・地目・面積・筆数・境界、その他土地状況、売渡しの条件、要件を記し、末尾に年月日・売主・証人名・買主が記載される。そして庄屋が「表書之通相違無御座候ニ付、裏判如斯ニ御座候」と裏書署名する。庄屋の証明のない証文は成立しなかった。土地の筆数が多い場合は、土地の検地帳の分帳、または売買対象地の物件詳細を記した小拾帳(こひろいちょう)を別置することもあった。山口村の証文をみると、享保年代後の買主は中津川宿・馬籠宿・妻籠宿など他村の商人が多い。明和四年(一七六七)の永代売渡し証文を掲げると次のとおりである。
永代売渡シ申田畑家屋敷之事
一上田壱反四畝弐拾四歩
一中田四反壱畝拾弐歩
一下田弐畝五歩
〆田方五反八畝拾壱歩
一下々田八畝拾弐歩
一荒畑五歩
一野下畑七歩
一屋敷壱畝弐拾四歩
〆畑方壱反拾八歩
外ニ竹藪壱所 但シ弐畝歩
反数合七反弐拾九歩
一右者我等控来リ候田畑家屋敷、桑・紙草・茶木・竹藪其外野畔諸木ニ至候迄不残、此度一家一類相談之上ニ而、代文金五拾弐両ニ永代貴殿江売渡、代金慥ニ請取申所実正明白也、但地境之儀ハ別紙絵図ニ相認メ進シ候通、少茂相違無御座候、則御検地御帳面之写目録壱通相添相渡シ申候、右田地代々控罷有候故、古券等無御座候、御年貢之儀ハ御免定之通、当亥年より末々当村役人衆指図次第ニ山口御蔵江御上納可被成候、柴山・草山・干草山之儀ハ古来より村入合ニ御座候、
一薪山之儀ハ御百姓入合ニ御座候
一御役・掛物等ハ毎年より村法之通御勤可被成候、此田地ニ付外掛物等一切無御座候、
一井水之儀ハ先年より有来候通、此度見分通少茂相違無御座候、右田畑ニ付無尽等ハ不及申、外書入等ニ致置不申候
一家一類ハ勿論脇より少茂構申分無御座候、永々貴殿御控可被成候、万一後日至り外より彼是申者御座候ハゝ、印形者共何方迄も罷出急度申明シ少茂御世話御苦労掛ケ申間敷候、為其両庄屋衆御裏判申請、地帳写目録相添相渡シ候故ハ毛頭違乱申分無御座候、為後日永代売券状仍而如件
山口村本人
孫蔵
明和四年 同人忰
亥四月 万之助
同所一家請人
儀助
八十
同所一組請人
尾崎新之亟殿 作蔵
同
太助
同
茂八
同
仁平
同所隣肝煎請人
与助
同所組頭請人
徳兵衛
同所年行司組頭証人
次郎右衛門
同
伝十
同
庄八
同
助七
永代売渡証文(明和4年)①
永代売渡証文(明和4年)②