農民が田畑を分割相続することによって、耕地が細分されて零細化をまねき、貢租負担者としての小農民経営の再生産維持が出来なくなり、年貢徴収に支障をきたすため、幕府は延宝元年(一六七三)六月、分地制限令(日本経済資料第二巻)を発した。名主は高二〇石、百姓は高一〇石以上持たぬ限り、田畑を配分することを禁止した。また正徳三年(一七一三)には、配分の分も残りともに高にして一〇石、面積で一町あることを必要とし、高二〇石、面積二町以下の配分を禁止した。享保七年(一七二二)には、高一〇石面積一町以上の者は、その余分を配分することが出来るように改めたが、宝暦九年(一七五九)には再び正徳三年の令に戻した。
分地は分家によってなされるが、江戸初期の分家は隠居分家が行われ、財産分与は均等分割であった。隠居分家というのは、二人の男子がある場合は、長男に嫁を取って跡目を譲ると、親は財産の二分の一を持って次男を連れて隠居し、次男を独立させるのである。三子の場合もこれに準ずるわけであるが、山間のこの地域では高にして二〇石以上を有する者は少なかったため三等分すると本家の体面が保てなくなるので、財産の二分の一を本家長男がとり、残り二分の一を次男・三男に等分して分与されるようになった。
江戸初期年代の検地帳・新田畑見取帳・名寄帳など、土地・年貢関係の帳をみると、分家・分地の関係がよくわかる。年代を異にする帳があれば、それを照合してみると、土地の移動・増減・家数などの推移や部落の成り立ちなど知ることが出来るが、山口村・馬籠村とも一冊も残されていない。江戸初期家康の蔵入地となり、元和元年に尾張藩に編入された裏木曽の川上村の様子をみると、寛永初期の地押帳・新田畑見取帳には、同一字名(後部落)の田畑のほとんどが一人の名請人になっており、わずか一、二人の分付名請人がある。この名請人は部落の草分けの家とみられる人で、代表して名請している。分付名請人には屋敷地の名請がない。この様子からみると、まだ分家が進んでいないように思える。それから二~三〇年後の慶安・寛文年代の同帳では、各部落とも数人の名請人がみられるようになり、分付請人もある。延宝年代(一六七三~八〇)後の帳には、分付名請人は姿を消している。この様子からみると分付請人は次第に分家していったと思われ、早いものは寛永年代に分家が始まり、寛文年代ころには各部落とも分家が一段落していたとみられる。
山口村庄屋楯家四代の伝六覚書に隠居分家の記事がある。これによると初代楯惣左衛門は三留野から山口村万場に来て荒地を開墾した。その年代は確かでないが天正の末年ころとみられる。次男の太郎兵衛は元和元年大坂夏の陣に軍夫として従軍した。後分家した。
次に二代惣左衛門は万治元年(一六五八)長男藤十郎に跡目を譲り、次男惣兵衛を連れて隠居分家した。四代目伝六の正徳二年(一七一二)の由緒書によると、当時第一次分家は二代目太郎右衛門、第二次分家は二代目勘十郎になっている。これを図示すると次のようになる。
(表)
右の二回の分家における財産分与は、どのように行なわれたのであろうか。四代目伝六の覚書のうちに、元禄元年(一六八八)の楯家の年貢の記録がある。楯家ではこの年まで分家の年貢分も本家の名儀で上納していたが、この年からそれぞれの負担分を上納することにしたので、そのための覚書である。
御年貢米 三石六斗七升弐合
口米 七升三合四勺四才
俵ニ〆 九俵三斗弐升五合四勺四才
但俵三斗八升入
内訳
四俵三斗五升弐合七勺弐才 太郎右衛門
三俵壱斗五升五合弐勺弐才 伝六郎
壱俵壱斗九升七合五勺 勘十郎
〆九俵三斗弐升五合四勺四才
この年貢高の書上げからみると、分家の財産分与は、第一次分家太郎右衛門分は均等分割分与で、一石八斗七升二合七勺二才ずつである。第二次分家では本家四分の三、分家四分の一の割になっている。下欄の表に見るように本家の一石四斗余は、当時の山口村の一戸当り平均年貢高一石〇九を少し上回る程度であったから、これ以上の分与は出来なかったとみえる。
(表)第27表 楯庄屋家 分家財産分与表(年貢高)