秀吉の代官石川兵蔵が木曽の村々に下代官を任命しているが、そのうち神辺休安の管轄村だけが、「三留野より下村」として、個々の村名が記していない。
山口村の村名が文献の上ではっきりわかるのは、家康の木曽代官山村良勝が、慶長一八年駿府の勘定所に提出した「木曽村々御成箇郷帳」の慶長七年(一六〇二)分に「米九拾壱石七斗弐升八合山口村」とある。村内の文献では、諏訪神社慶長一六年の棟札に「恵那郡木曽内山口村」と記してある。江戸期以前に村名のわかるものは見当らない。山口村の村名の発祥はいつごろか、さだかではないが、太閤検地の際村切りによって付けられたと考えられる。村名は地理上の観点から付けられたものが多い。山口というのは読んで字のとおり、山の入口の意味である。これは木曽内部の人によって付けられたものでなく、美濃国の方からきた人によって付けられたものである。落合の方向から木曽に向かってくると、眼前に団地が開けるが、その先にはうっそうとした深山が行く手を遮ぎるように連なっていた。この景色をみて思わず出た言葉が「山の口」であったと思える。
山口村には縄文・弥生時代の遺跡とみられるものがあり、古代に入って青木平の古墳や、川原田・原・丸山・向山など各所に土師器・須恵器の破片が採取されているので、古くから人々の生活が営まれていたと考えられるが、中世来・近世初頭に直接結び付くものが見当らない。
村の成り立ちには血族集団によるもの、他から移入によるものがある。山口村は後者であると思われる。山口村の小字は「○○がいと」と呼ばれていた。「かいと」は古代には、田地や畠地にすることを予定して囲った地域を意味したが、中世では田・畠地・居屋敷を組合せた個人の私有地を意味するようになったとされている。地勢のよい場所にはいくつかの「かいと」が出来、次第に部落となり村となった。山口村には上ヘ村・下タ村の地名が残っている。宝暦六年(一七五六)尾張藩の儒臣松平太郎右衛門(号・君山)が、木曽の地志調査に巡村した際、山口村が差出した資料がある。これには字名に「かいと」が付いている。字名のほかに屋号になっているものも多い。
江戸時代になって肝煎(後の庄屋)が任命され、村の自治体制が整ってくると村内の「かいと」は、一三組となって、その組頭が庄屋の下で村政に参与するようになった。一三組はあるときには一二組になったり、一三組に復したりしてきたが、上山口九組、下山口四組であった。上山口・下山口の区分は、諏訪神社や猿投神社の祭行事の分担以外のほか行政的な区別はなかったようである。
一三組が揃って記された文書が見当らないので、確かな組の呼称はわからないが、かいと名・字名であったようである。またときには組頭名を冠して孫八組・長六組などを記したものがあり、固有の呼称が揃ってわからない。ときどきの文書から拾い上げてみると次のようである。あそう組・与七垣戸組・上竹組・市場組・青木組・田口組・林組・東組・原組・前野組・八重島組・大畑組・南野組などである。
天明三年(一七八三)の文書には組頭名を冠して長六組・庄蔵組・惣兵衛組などと記してあり、組の書上げ順序はあそうから上村・下村・下山口と順を追っている。明治三〇年ころにも字名で呼称している。