馬籠村

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室町幕府の永享三年(一四三一)の御番帳に、遠山馬籠左馬介の名があり、その後の文安・長享年代の御番帳にも遠山馬籠・遠山馬籠右馬介の名がある。そして法明寺という寺があったことが永昌寺に現存する般若経の書込にあり、その寺跡とみられる場所の発掘調査の出土品や七基の五輪塔などから考えると、室町初期から岩村遠山氏の一族が居館を構えていたことがわかる。天正二年(一五七四)織田信長の岩村構(かまえ)を武田勝頼が進攻した時馬籠の遠山氏は武田軍に降り、翌三年信長の岩村城攻略に滅亡した。そのあと木曽氏が進出して、その臣島崎監物が馬籠砦の備についたとみられる。天正一八年木曽氏は下総国に移封され、木曽は秀吉の直轄地となり、慶長五年関ヶ原役後は、家康の直轄となり、同七年中山道に駅制が敷かれ馬籠宿が設けられた。寛永一六年馬籠宿火災の際には三一軒中一六軒焼失したとある。その後宿場町は発展して上町・中町・下町を形成した。在郷には峠・あら町・三つや・新茶屋がある。
 馬籠の地名は、江戸時代には「馬籠」・「馬込」と記されている。馬籠の地名の意は『馬籠考』(国学院大学教授・木下良)・『地名語源辞典』(山中襄太著・昭和四三年)には、「駒込と同じく馬を込めておいた牧場という意味であろう」とし、また鏡味完二、鏡味明克共著『地名語源』(昭和五二年)には、「狭い谷」の意としているとある。付近にも馬籠・馬込の地名は、南木曽町与川・田立にもある。いずれも馬を囲い込む場所という意味は共通しているようである。馬籠の名は、地形からみて「馬を囲い込むような狭い谷間」という意であるとうかがえる。
 「あら町」は、江戸時代には「荒町」「新町」、かなで「あら町」などと記されているが、これは宿場町に対して、あらあらと家並があるところから「粗町」の意であると思える。