江戸時代の家数・人口のわかるものには、宗門改帳、幕府が享保六年に令した村の書上げ、同一一年から子午の歳ごとに提出させた人口・馬匹数の調査がある。宗門帳は山口・馬籠村とも残されていない。ほかに享保九年検地の際山口村が奉行に提出した村の書上げに家数が次のように記してある。
一惣家数八拾六軒
三拾七軒ハ上村
拾六軒ハ下村
三拾軒ハ下山口 これは八重島かいと、南野垣戸、大畑垣戸共に一所に仕り下山口と申候
右の総家数八六軒となっているが、上村・下村・下山口の軒数合計は八三軒となり、三軒不足する。これはあそう一軒きびう二軒である。
人数は次のようになっている。あそうときびうの人数は入っていない。
一惣人数六百七拾壱人 内[男三百七拾壱人 女三百人]
上村 弐百五拾壱人 内[男百三拾九人 女百拾弐人]
下村 百三拾六人 内[男六拾八人 女六拾八人]
下山口 弐百八拾四人 内[男百六拾四人 女百弐拾人]
宝暦六年(一七五六)六月、尾張藩書物奉行松平太郎右衛門(号君山)が、木曽地誌調査のために巡村し、翌七年「吉蘇志略」を編纂した。その際山口村から村の書上げを提出している。その中に、家数・人数を次のように記している。
(表)
村中家数〆 百十八軒 人数〆 八百二十六人
村中字十一ヶ所
天保九年(一八三八)尾張藩御小人目付岡田善九郎、家田瀬兵衛が木曽谷中巡見し、「木曽巡行記」を編纂した。その際山口村から提出した文書の中に、文政一二年から天保九年までの人数の書上げと、同九年の字ごとの軒数の書上げがある。
これらの書上げから字別の軒数の推移を一覧表にすると下欄のとおりである。
また戸口の推移を一覧表にすると次頁のとおりである。
(表)第28表 山口村字別家数の推移
備考 享保9年 検地奉行へ差出し文書
宝暦6年 吉蘇志略の資料書上
天保9年 尾張藩小人目付岡田善九郎あて差出文書
(表)第29表 山口村の戸口の推移