馬籠村は宿町と在郷からなり立っている。宿場は問屋、在郷は村方で庄屋の扱いになっていたが、問屋文書・庄屋文書ともに残されていないので、様子を知ることが出来ないのが残念である。宿場関係のことは町年寄を勤めた八幡屋、大黒屋に残されている文書で、およその事はわかるが、村方のことはわからない。
享保六年馬籠村書上(蜂谷保氏蔵)、宝暦六年六月松平太郎右衛門木曽巡村の際に提出した馬籠書上(大黒屋覚書)に、宿町と在郷の家数がある。享保六年の書上げには在郷の字名が六ヵ所であるが、宝暦の書上げには中新田・青野に各一軒ずつある。享保の検地前には塩沢沿いに新田が起されていたが砂入りなどで損耗してしまった。これらの代替地を求めて青野原一帯に新田が起こされるようになった。しかし水利が伴わないのではかばかしくなかったが、いもり池の築堤によって宝暦ころから開発が進んだ。前頁の字別戸数表にもその様子がうかがわれる。
(表)第30表 馬籠村の字別戸数
(表)第31表 馬籠村の戸数