きびうの渡し場

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山口村から田立村・坂下村にいくには木曽川を渡らなければならない。古くからきびうの渡しがあり「桴(いかだ)」渡しであったようである。江戸時代の文書には桴の字が使われている。「字源」(簡野道明著角川書店)によると「桴、大を筏といい小を桴という」とある。桴渡しの出来る場所は流れの緩やかな岩石のない場所で、両岸から砂地の浜のある所が適している。きびうの渡し場は最もよい条件を備えていた。山口発電所の上流約一〇〇メートルの位置にあった。江戸時代には川幅六〇間(一〇八メートル)水深一丈(約三メートル)であった。
「桴」の記録の見当るものの最古のものは、楯庄屋用要帳元禄一四年(一七〇二)の桴木用材の払い下げ申請書である。以降二〇数年ごとの周期で使用限度に達し、更新をし、その用材払い下げ申請を提出している。
1 元禄一五年の更新 同一四年八月これまで使用してきた桴が使用出来なくなったとして、桴の用材を福島役所に申請した。福島役所から上松材木奉行所に達せられ田立山粟畑入り山にて払い下げを受けることになり、翌一五年三月杣を頼み造材をした。その願書を掲げると次のとおりである。
     奉願きびう桴木之事
一檜長七間、[幅本口にて 壱尺八寸] [厚 壱尺弐寸弐分]
 右は山口村きびう桴木、田立御山栗畑入ニ而被仰付被下置候ハヽ難有奉存候、只今御座候桴悪敷罷成御用之御間ニ立不申候故、御願申上候以上
                                       善作
     元禄十四年巳八月廿八日                  山口村庄屋
                                       傅六
この願書によると、桴は長さ七間(一二・六メートル)、幅一尺八寸(〇・五九メートル)、厚さ一尺二寸二分(〇・四二メートル)の平角材を二本並べてつないだものであった。古くは檜材で作っていたが、この後宝永五年檜類が停止木となり、使用出来なくなり杉材を使用するようになった。
2 享保一三年(一七二八)八月新調。元禄一五年より二六年後桴が朽損じ使用出来なくなり、あそうの神明神社の森の杉の木二本の払い下げを受けて前回と同寸の桴を新調した。
3 宝暦九年(一七五九)三月新調 前回の新調から三一年を経過し桴が朽損じ使用に耐えなくなったので、次の申請書を提出した。
 一山口村きびう桴之儀、去る享保十三年申年森の内ニ而、杉長六間、幅壱尺七寸、厚壱尺弐寸程ニ出来仕候杉木弐本御願申上候而唯今迄通用仕候得共、年数相立候故、殊之外朽損し通行難仕御用之御間ニ合兼候ニ付、此度森之内ニ而右間数程之杉木二本切御免被下候様願上候
     宝暦九年卯三月
4 天明元年(一七八一)の新調 右宝暦より二二年後の天明元年、諏訪神社の森のうちにて杉長さ六間、幅一尺七寸、厚さ一尺七寸程に仕上る杉の木二本の払い下げをうけ新調した。
5 寛政元年(一七八九)流失による新調 同年七月の洪水により流失してしまった。止むなく小桴を作り仮りに使用していたが、通行に間に合い兼ねるので、宮の森のうちにて前回と同様の寸法の杉の木二本の払い下げをうけて新調した。
 それより九年後の同九年桴「志み重くなり使用が出来なくなった」としてそれに代わる椹木二本を浜井場の神明森で元伐りを申請した。
      乍恐奉願上口上
 一当きびう桴之儀、寛政元年酉年森木之内ニ而杉二本御願申上本切仕、長六間、幅壱尺七寸、厚壱尺弐寸程ニ出仕、唯今迄通行仕候得共、右桴木志み重く罷成、御用之御間ニ合兼申候間、此度当村神明森ニ而、右間数程之桴出来仕候椹二本元伐御免被下置候様奉願上候
      目通 九尺廻り程
   神明森
      仝  七尺廻程
  右之木品本伐御免被下置候様奉願上候
  右奉願上候間宜敷被為 仰付被下置候ハゝ難有仕合ニ奉存候以上
     寛政九年巳十月
                                  山口村庄屋 両人
右の通り更新の用木の申請をしたが、奉行所は「右之趣相済ず願書差戻申候」として認可にならなかった。この結果の記録は見当らないのでわからないが、椹は停止木であるので取り上げられなかったと思える。
6 文政五年(一八二二)桴が船になる 右の寛政九年より二五年後桴が使用出来なくなったのを機会に船に変更になった。桴は材料の材木が得られれば製作は簡単に出来たが、もはや材料木は神社の森にても得られなくなった。船は材料は多量に要するが板をはいで作るので大木でなくても間に合う。それと幕末になり流通経済が盛んになり物資や人の往来も増加して桴による輸送も時代にそぐわなくなってきたためとも思われる。
7 文政九年の新造 三年前の文政五年に新調した許りの船が、同年八月一四日の夜の洪水に流失してしまった。福島役所に願い出ていたところ翌九年三月妻籠山内で船用木の元伐りが許可になった。用材の槇であった。船の大きさは文政五年と同様であった。山口川並番所に用材の検査を次のように願い出ている。
    乍恐奉願候御事
 一槇本伐一本目通 六尺五寸廻り
 一同本伐一本目通 六尺九寸廻り
 一同木伐一本目通 六尺二寸廻り
 一同本伐一本目通 七尺五寸廻り
 一同本伐一本目通 七尺一寸廻り
   〆木数五本本伐
  右出来木内訳
 一 三本  長一間  四、五角
 一 二枚  長二間半 [厚二寸五分 幅一尺一寸]
 一 二枚  長二間半 [厚二寸 幅一尺一寸]
 一 二枚  長二間半 [厚二寸五分 幅一尺]
 一 二枚  長二間半 [厚二寸 幅一尺]
 一 五枚  長二間  [厚二寸 幅一尺三寸]
 一 五枚  長二間  [厚二寸 幅一尺一寸]
 一 五枚  長二間  [厚二寸 幅一尺]
 一 十一枚 長二間  [厚二寸 幅九寸]
   〆木数 三十七枚
 右ハ当村きびう川渡之儀、文政五年渡船御願仕候而新艘出来相用来り候処、去八月十四日夜之大水ニ而流失仕候ニ付、今般新艘出来仕候処、木品之儀福島御役所え奉願上候処、妻籠御山内ニおいて本伐御免被仰出候ニ付、右場所ニて木取出来仕り、木曽御材木方御役所御見分御木口印相済引取申候、何卒御見分之上被仰付被下置候様奉願上候以上
    文政九年戌三月                       山口村庄屋 安太郎
        山口御番所