嘉永元年渡場の調査

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同年八月福島役所は、村々の船・桴渡場について、交通の目的・利用者・新調時の用材認可実績等の調査を徴した。山口村の報告書は次のとおりである。
     奉達口上覚
 一字きびう
  船場      船長七間三尺  但檜類剝船ニ御座候
           幅四尺五寸
 是ハ坂下村・川上村之通用道并山口村御百姓百七拾軒之者、日々通り御用相勤申候間、先年より願上奉り檜類取伐御免仕来り候場所ニ御座候
 一字あそう
  桴場      [桴長弐間三尺 幅三尺五寸]  但雑木
 是ハ村内字あそう御百姓三軒之者共、田立村、坂下村之日々通行道ニ御座候間、是迄雑木を以取拵候得共、追々尽木に相成申候間、此上之儀奉可願上候間、模寄之於御山内檜類悪木之内御免被下置候半てハ、難渋之儀ニ御座候、右之外村内川越桴場無御座候
     嘉永元年申八月
 
この調査のあと、福島役所は渡場の桴の管理について次の通達を出している。
 村々渡場桴之儀流失不致様、可取斗は勿論之儀ニ候処、中ニハ等閑に相心得自然手当不行届流失いたし候儀有之哉ニ相聞候、右は近年御山内尽木ニ付而ハ、桴朽腐代り相願候而茂、容易難相済程之折柄、右様不締ニより流失等いたし候ても、伐り桴木相願候ては不都合之事ニ候間、出水之節は勿論平常とも精々念入手当可致候、此回状承知之上村付下え庄屋印判押早々順達納所より役所へ可戻者也
     (嘉永元)申九月十六日
 きびうの渡しは山口村の渡し場だけでなく坂下村側にも桴場があり、桴場の屋号を持つ家がある。古い時代から坂下村・田立村を結ぶ交通の要路として交流が行われていた。江戸時代初期からの様子をみても桶屋・鍛冶屋・石屋・医師などの往来があり、元禄時代の宗門改の書上げ文書をみても山口・坂下間の婚姻が常に行われていたことがわかる。元和元年八月木曽と裏木曽三ヵ村が尾張藩領に編入されてからは、尾張藩役人の往来が増し、さらに寛文五年木曽山と裏木曽山の支配が藩直轄となり上松材木奉行の管轄下になると、尾張藩庁・上松奉行所の役人の山と役所を結ぶ往来の要路となった。そのため山口村民の川渡人足役も大変な負担増加となった。
 嘉永年代からあそうの渡しも田立村への私渡しであったが、明治七年山口・田立村が合併し山田村となると、渡船の需要が増し、村営となった。きびうの渡しは昭和七年弥栄橋架設まで存続した。