住居の制限

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住居については、幕令では寛永一九年(一六四二)五月の「覚」の第五に、不似合の家作を自今以後してはならないとしている。この法令は前年来の大凶作に関連しての倹約令のうちの一条である。寛文八年(一六六八)三月の「覚」ではその二に、庄屋・惣百姓共に、自今以後その身に不相応な家作は仕るべからずとし、繰り返し禁止し、街道筋の町屋・宿は例外としている。享保七年(一七二二)一一月の「覚」には、諸国在々の百姓がこれまでの住居のほかに新規に家を作ることを禁じ、一家のうちに子孫兄弟が多いとか、病身の者がいて同居出来難い時には屋敷のうちに小屋掛けをするか、差し掛けにするのは格別としている。
 明和元年(一七六四)六月の「百姓家作の儀惣触」によると、往古高請した百姓のほかは、門・塀・庇等の普請をすることを禁止し、高請のあった親類・分家であっても、これまでに門・塀・庇のあった者は格別であるが新規に作ることは禁止し、村ごとに請書を徴している。右は幕令であるが諸藩もこれにならい、またそれ以上に厳しく規制している藩もある。
 このように幕令や各藩の住居に関する制限が繰り返し出されているが、いずれの法令も住居は雨露を防ぐまでのことに心得ることを肝要としている。そしていつも天井・板敷を禁止していることは、土間を強要しているということである。土間を広く取っているということは、住居が労働の場であり、生活の憩の場ではなかったということである。
 江戸初期の住居は、宝暦年代木曽材木奉行所に提出した古家建替の材料検査書(川上村庄屋文書・原ますみ氏蔵)や、同村に残る江戸初期の家屋の梁組によって推量出来る。山口村には江戸時代の建築の様式の残る百姓屋はほとんど見当らないが、八区林茂氏宅がその面影を残している。江戸初期当初は山林規制が確立しておらず、資源も豊富であったから、家の附近で大材が自由に採材出来たから、大黒柱を中心にした梁組・桁材・框材などいずれも巨材が使用され、大黒柱尺五寸角、梁・桁なども尺二寸以上を用いている。住居は梁行六~七間、桁行八~九間あり、柱は八寸角が普通であった。

大戸のある家 8区林茂氏宅

 部屋は味噌・漬物部屋が土間、穀物部屋・台所・いろり場が床張り、寝所(ねどこ)である。穀物部屋は鼠の侵入を防ぐため天井張であった。寝所は固定しており、部屋仕切りは板壁で入口は三尺の板引戸がある。土間に籾穀を厚く敷詰め、藁を敷きその上にむしろ・ねこごを敷いた。そして藁のハカマを入れた。また麻布の袋にハカマを入れて藁布団のようにして用いた。保温はそれほど悪くなかったが、温度が上るので衛生的ではなかった。籾穀は毎年取り替えて古いものは肥料にした。
 厠は別棟になっており、糞尿・灰など肥料の貯蔵所でもあったので、慶安の触書には広く作るように令している。
 勝手場の生活用水は湧水や、ほとんどが流水を使用し、大木をくりぬいた井戸舟に引き入れていた。この井戸場が炊事場でもあった。井戸舟の下は池になって鯉を飼っていた。この井戸場の位置が母屋の右側か左側にあるかによって右勝手、左勝手の間取になった。
 百姓の家の入口は、両方に明ける戸は禁止されていたので、表の入口には大戸という一間幅の開戸があり、人の出入口は、高さ四尺五寸、幅二尺五寸の引戸が設けられていた。潜って出入りするので潜り戸といった。入口を入ると馬屋があった。馬屋の前横にワラ打石が据えてあった。馬屋の馬の出入りや、馬屋肥出しのときには大戸を開いて行った。馬屋の前面は広い土間になっており、土間に粘土で築いた竃(くど)があり、大釜がかかっていた。味噌豆を蒸したり、楮の皮を煮たりした。土間の屋根裏には二本の竹竿が吊してあり、味噌玉の乾燥や、煙草の葉を干すに使った。また草履やわらじの作ったものをかけて保管した。井戸場に出入する戸口の馬屋の横には風呂が据えてあった。江戸初期には仏壇は自家制の粗末な木箱で台所の板間の隅に安置してあった。仏間などなく、朝、水や供物を供えるのに都合がよく、住居のうちでは最も清潔な場所であったからと思う。
 このような間取りが、この地方の百姓住居では少なくとも江戸中期ころまでは変わりなかったとみられる。宝暦・明和年代(一七五一~七一)ころになると、玄関・天井・長押・欄間・縁などを禁じた法令、畳・藺(いぐさ)の薄縁の使用、建具もこれに準ずるというような制限がみられるようになる。このことは農民の住居が生活の場としての性格を持つようになり、床上の生活をするようになってきたと思われる。

江戸初期の百姓住居(右勝手の住居)