衣服の制限

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幕府は寛永五年(一六二八)二月に、百姓分の着物は布、木綿に限り、ただ名主そのほか百姓の女房は紬(つむぎ)の着物まではよいとしたが、同一九年五月の郷村請法度では、庄屋は絹・紬・布・木綿、脇百姓は布・木綿とし、そのほかは襟(えり)や帯にもしてはならないとした。同二〇年の土民仕置覚では、庄屋とその妻子には絹・紬まで認め、脇百姓には布・木綿に限っている。
 享保八年(一七二三)九月、尾張藩から木曽谷中村に触出された倹約の法度に、「百姓・町人衣類の儀は、先年仰せ出された男女共に、きぬ・つむぎ・さらし布以上の物一切用いてはならない、古くてもいとわず常々は、もめん・地ぬの等もっぱら着ること」と申し渡している。
 宝暦九年(一七五九)七月、福島山村役所から「今般尾州より御簡略の儀・仰せ出され候趣委細別紙ニ申触候」として、尾張藩の倹約令を村々に達している。その冒頭に「百姓共の儀世上一統の事ながら近年段々困窮に及び、勿論村所にもより、一村の内にても貧富両様これあり候得共、都而は近来打続く年柄悪しく、その上世上のならわしながら昔これなく栄耀の暮らし方、百姓の身分には過分の事のみ多く候」といい、「衣類の儀大小の百姓男女ともに地木綿・地布の類にかぎり着いたし、それより以上の品かたく着用仕りまじく候」と規定している。百姓の衣類は地木綿・地布の類にかぎり着用としている。地布というのはシナの木・藤・麻・苧などの繊維で織った地元の布である。シナの木の繊維は強靱であるが、繊維が太いので近来は酒・しょう油を絞る袋に利用された。麻は古来から織物に使用されたが、繊維が細く薄いので寒さを凌ぐのに何枚も重ね着をした。麻は染まりにくかったので、せいぜい紺の無地であった。草の茎から糸を紡ぎ織物にすることは古くから行われ、慶(けい)安の触書にもおはたをかせぎとあり、寛政三年尾張藩の綿布銀の課徴趣意書に女が苧(からむし)をかせぐのはお上のお陰であるとしている。女のよなべの仕事であった。苧から紡いだ糸を家々で織り、赤土を溶した水に布を浸したり、ツユ草やハギの花を布にこすり付けるという方法から、スオウ・アカネなどの煮汁に浸して染める方法が考え出された。苧は地織の布の主流であった。
 さきにみた享保八年の倹約令では百姓の衣類は「もめん、地ぬの」とあり、宝暦九年の触書では「地木綿・地布に限り着いたし」とあり、「地木綿」の語句が初めてみえる。この様子からみると享保八年ころには、木綿織物が一般に普及してきているようにみえる。そしてそれより三六年後の宝暦九年には地木綿と記しているから尾張領内で生産が行われていることがわかる。岐阜・尾西あたりを産地として、美濃縞・尾張縞の銘柄で広く知られるようになった。
 宝暦五年(一七五五)児島右衛門著「地方品目解」によると、綿を産出している所は、美濃可児郡・武儀郡以西の中濃までである。文化五年(一八〇八)樋口好古著「濃州徇行記」には可児郡・恵那郡では正家村(現恵那市)で、これより以東にはない。同書川上村の条には「この辺り木綿はすべて出来ず、麻を多く作り布を織れり、されば小百姓は多く布の服を着れり」と記している。寛政年間(一七八九~一八〇〇)ころには、尾張藩では各村々に綿の栽培を奨励した様子がみえる。川上村庄屋手鑑に「綿の実蒔き候ても綿に相成り申さず」と記している。山口村でも外垣庄屋留帳に同様試作したが紡げなかったと記している。
 文政一一年(一八二八)一二月改「御簡略仰せ付られ候箇条書覚」(宮下敬三蔵)には、「村役人并ニ御目見えの者、上下着用の節は絹布相用いても随分質素ニ相心得、美麗にならぬように仕り、そのほかは綿布のほか着用してはならない。平百姓並に水役の者共貧富にかかわらず男女共一統綿に限り、絹布の類一切着用してはならない」と達している。このころになると木綿織物が一般化して、「地布」の語句が使われなくなっている。