村極

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村定・村掟などとも呼称されている。内容は村民が生活上の利益を公平に受けるため、惣村中相談の上決められた規約で、中には罰則の設けられたものもある。山口村・馬籠村とも帳として残っているものは見当らないが、木曽では山林資源の枯渇に伴う経済的事情により村々の生活面に変動が生じた。享保の検地による米納切替により米年貢の増徴・白木六千駄の規制・林政改革による伐木規制による山林関係者の失業など、谷中住民の日常生活上に種々の変化を生じ、村々住民の生活は影響を受けて「困窮」が生ずるようになった。山林規制に代る産業の振興に、藩では種々の奨励に努力を払うが、山間の谷中村では遅々として進まず村民は困窮していった。
 山口村で宝暦八年二月、「生活困窮に付」として惣村中協議を重ねた結果、生活上の負担に軽減をはかる項目を取り上げ、この改善を庄屋・組頭に示し、次の「願い上奉る口上の覚」を福島役所に提出した。
 
        願い上奉る口上の覚
 一今度惣村百姓中困窮に付、両庄屋家之願い申し候義は、半三郎殿御年貢高拾五石程とも相見え申し候内八石目御役懸り物等相除、残りの石高え掛り物等成生き下され候様にと願い申し候、只今迄は七里通用、諸御奉行様御宿并に諸寄合等一切の儀成され候得共、三十日の内廿日は右の通り成され十日は平左衛門殿方え願い申し候は、御検地以後は御上様より給米をも下し置かれ候得共、村方御救の為御勤下され候と願い申し候
 一平左衛門殿え願い申し候儀は、御年貢高四石程も御座候て、只今迄は七里通用諸御奉行様方御宿、諸寄合等も一切成されず候、困窮の村方に御座候間三十日の内十日は御勤め成生き下され候様にと、願い申し候、御検地以後は御上様より給米下し置かれ候とも、御勤下され候と願い申し候、惣百姓中存付候は両庄屋衆え願上候は村方諸入用等も減少致され候かと存じ奉り候
 一御上様より拾か年以前村方惣百姓中え御救金五か年の間七拾五両つつ下し置かれ候得共、村方にて少し宛申し請べく候、村入用にも御引次下され候并に御拝借金三か年の間下し置候得共村方にも壱銭も申し請けず候得共御返納金壱か年五、六両程も亥の年より三か年の内相済申候、是より年季の内御返納仕るべく候と存じ奉り候
 一馬籠新道出来の節より御手当久しく請取申さず候所に、三か年以前馬籠より請取成され候と承り候得共、何様に成され候得共相知れ申さず候
 一定使の儀村方より願置候所、弐人給米前度は八俵から拾俵迄、只今は拾四俵弐斗程入り申候、少々物をも書候者頼遣し候様に申され候に付、給米等も段々と上り、定使相極め節、年により四、五拾人より百人程迄掛り百姓難儀に存候
 一山口村諏訪大明神の祭り、先年より七月廿七日に御座候得共近年は八月七日に罷成秋えも指掛り候得ば、百姓難儀に御座候、右祭礼の儀は上山口にてはぼんでんとし、下山口にては花馬を飾り出候処、六年以来下山口共に一緒に踊候様にと庄屋衆より仰付、役者遠方と申し殊の外難儀仕り、時々御断をも申候得共断り絶ち申さず候、そのほか懸物等花馬の内は壱人前拾弐文宛にて相済申し候得共、近年踊に成り候ては無高の者ども廿四文より三拾弐文まで出し候、中位より高持まで百文より百七拾文程も出し申し候、近年は山口の者何方よりも別して踊豪奢に罷成り、物入り等も多く掛り惣村中難儀に及び申候、此の儀共に先々の通りに御上様え御願申し上べく存じ奉り候
 一半三郎方にて毎度志んだい成申さず候て、百姓壱人の手前たき木三背負い宛出し候得共、近年山も尽き百姓難儀に御座候間此の木出し申さず候様に仰せ付下され候はば有難仕合に存奉り候
 一山口村組頭の儀、先年拾三組御座候所に、近年、御上様より御つぶしになされ候て、百姓の内にて四人御目かねにて仰せ付られ候外に、右の十三組御立遊ばされ下さるべく候、此の十三組の内にて長六と申す仁、先年の組頭地にて御座候得共、いかが存寄り御座候哉今度の御願にもれ候由、右の宗門組十三組御立遊ばされ下され候はば、長六組頭の儀も組下の内え仰せ付られ下され候はば有難仕合に存じ奉り候
 一御役過不足の勘定残米五俵程も、御座候うへ、当春定使給米に指詰り組頭衆え御借下され候と相願候得共、米の儀は路用に入れ申し候に付売り払い申し候と申され候に付、百姓難儀に存じ奉り候
 一庄屋脇久助田地半三郎殿え買取られ候に付、家株御潰しに成され候処、此の以後は右の家御立成され候様に仰せ付けられ下さるべく候
 一御用紙の儀先年は御旦那様・御家中様方斗りと存候所、近年は町方より多くあつらへ御座候様に相見え候間百姓難儀ニ及び候、比の以後は御上様・御家中様方斗り仰せ付られ下さるべく候、
 一殿様御通り其の外人別にて出し候節斗り往還御役相勤候節に、庄屋・組頭衆よりも人出し申し候様に仰せ付られ并に路用共に、同様に仰せ付下さるべく候
 一御旦那様え御目見え御年頭相勤成され候節は諸入用、借人共に庄屋衆手前にて被成候様仰付られ下さるべく候其内村用兼ねて御出成され候節は村方人出し申すべく候
 一諸御奉行様方御泊り御休成され候節やさい等の儀、近年は多く取集され百姓難儀に及び此以後は庄屋衆手前にて仰付され有難仕合に存候
 一山口村御寺の儀只今役人衆法地に成され、百姓難儀に御座候所撞鐘御求成され候節も百姓に相談も御座なく候て、代金割符にて取集候て難儀致候、此以後は仏具の儀相調成され并に寺修理等の儀村方え多く掛けず候様に仰付され下さるべく候、後住の儀は平僧地になされ下さるべく候様に村中御願申上候、此の以後は先格の通り仰せ付され下さるべく候はば有難仕合に存じ奉り候
 一惣て村方御取廻の儀は御大法の掟壱通りの儀は格別、其の外少々の儀は御断り、日手間費えず候様に仰付られ下さるべく候
    右の品々御願申上候
       宝暦八年寅ノ三月                         惣百姓中
       御上様                          庄屋半三郎殿
        沢田与惣左衛門様                     平左衛門殿
        川口建右衛門 様                    組頭文右衛門
        千村喜左衛門 様                      円蔵
                                      忠左衛門
                                      与右衛門
 右の「口上の覚」のなかの庄屋・村・寺などに対する負担は、従来慣習として負担をしてきたものである。そのうち庄屋の年貢高に掛る高懸物は、初めは庄屋は無給であったので、一般的に二分の一程度村中で負担するのが、通例であった。木曽では享保の検地後同一四年から三石の給米が支給されるようになったので、この分百姓中での負担は庄屋負担にされたいと申し出ている。しかしこれらの要求は山口村のみでなく、谷中のほか村にも同様のことがあるので、この訴訟ともいえる願いを福島役所で採択しては、ほかの村への影響もあり表だって取り上げて裁決を下すのは穏当でないとして、福島宿村役人に、山口村庄屋と村民が和解により解決するよう斡旋を依頼し双方が和睦して解決し次のように決まった。
          覚
 一庄屋半三郎殿御年貢高の内六石目自今以後諸役かゝ里物等相勤申す筈
 一壱か月の内廿日半三郎殿、十日平左衛門殿村方諸用并に御奉行衆御宿共に相勤申筈
 一定使の儀村方相談の上給米下直成者申付候筈
 一祭礼の儀六ケ年以来上下一統に踊等致し候へども向後は古来の方に致す筈
 一寄合の節村方より入木致し候へども向後は寒中などの節は格別その外は見合に致す筈
 一組頭の儀先年の通り御願申上、十三組にて年番に被致筈
 一庄屋脇屋田地先年半三郎殿え相譲り候に付右の者、家居潰置致され村方勝手に買わず付、末々は此の家相立筈
 一殿様御通りその外人別に出し候両庄屋よりも召使出す筈
 一諸奉行様方御泊り休の節只今まで野菜等村方より取集候得共、向後は両庄屋手前にて賄い申す筈
 一庄屋半三郎殿之村方より薪年内に三背負宛の役相勤候、当年よりは三背負の内二背負半三郎殿、壱背負は平左衛門殿方え差遣筈、
 一村方勘定の節は、両庄屋・組頭は勿論、その外村惣代として二、三人程宛立合申筈并に平生村入用の節組頭立合相談の上取扱い申筈、惣じて調物等もこれあり候得ば組頭立合申筈
 一年内村方諸入用等その節、入用品委細帳面に相記置申筈
 一村方へ頂戴物等其時々御百姓え申聞せ、その上相方え配当致候共、又は村入用に差加へ致候共組頭立合い村方へ申聞せ納得の上取扱い申筈
 一村方の儀連々困窮に及候得共、庄屋中隨分相いたわり取廻し少しも痛難儀の筋これなく様に取斗ひ申筈、只今迄古法もこれあり、その趣を以って取斗い候事共、これあり候得共時節柄悪敷候に付、万端切替隨分簡略に致村方入用かかり物等も相減じ申方に取り扱い申筈
 一光西寺法地の儀并に撞鐘等の儀、常躰の事とも違い菩提の事にその上一旦相済候上の義に候得は、その分の事に候修覆并に寺の儀に付、村方より平当等致さず候て叶い難時節の村方え悉懇談の上取斗い申筈
 一今度村方願の趣、表立御吟味に相成候ては甚宣からず候に付、自分談判の上双方取斗い諸事無難に相済申候上は自今以後互に憤り申す儀は勿論諸事拒み間敷事これなく筈、右の通り両庄屋えも談判の上承知の上諸事和睦仕候所相違これなく候
    宝暦八年寅五月                   福島宿役人 亀子孫太夫ほか六名
   右の通り福島役人中取扱双方得心の上相済候処相違これなく候其為此の如くに候以上
                                    外垣半三郎
                                    楯平左衛門
 宝暦年代以後江戸時代一〇〇年の間、いつも「困窮の村方に付(つき)」として、伝馬助郷・川狩材木人夫の割当軽減の要求など願書が出されている。農作業と課役出役の両立に無理があったということである。