豊臣秀吉が天正一〇年(一五八二)より太閤検地に着手し、直接の耕作生産者である農民を貢租負担者として、検地帳に名請人として登載し農民を土地に繫縛する政策を打ち出した。天正一六年には刀狩令を発して百姓から武器を没収した。この検地と刀狩は、支配者である武士と農民の区別を明確にし、百姓を被支配身分として固定する政策であった。さらに天正一九年には百姓の離村を禁止し、侍・中間・小者が、百姓・町人となり、百姓が町人・職人となることなど、武士と庶民間の身分移動を禁止した。こうして強権的に武士・百姓・町人の身分の固定化がはかられたが、この政策は江戸時代に入り士・農・工・商の身分制度が固められた。
江戸時代には、社会のあらゆる場面で身分序列の一層の細分化が図られ、農村社会でも本百姓(高持百姓)・水呑百姓(無高百姓)の身分序列が出来、藩によっては本百姓の上に長百姓、苗字帯刀を許した郷士を本百姓の上に設定するなど人為的階層的な身分差別による秩序社会の安定化政策を実施した。しかし江戸中期ころから質地小作が増加し、地主・小作制度が進むにつれて、本百姓体制はくずれ、幕末の急激な経済変動の中で、幕領・私領とも献金による苗字帯刀の免許増加などで幕藩体制を支えてきた身分制度は崩壊していった。
江戸時代百姓町人のうち、村役人の庄屋、宿役人の問屋・町年寄などに免許された士分待遇の栄誉的恩典格式には次のものがあるが、これは尾張藩庁の免許によるものである。山村家の免許については、次に掲げる。
①上下御免 裃(かみしも)の着用を免許される(武士の礼装で同じ染色の肩衣と袴を紋服・小袖の上に着る)。
②苗字御免 農・工・商の者は、公に苗字を使用することは禁じられていたので公的な文書に苗字を書くことは出来なかった。庄屋・宿役人や百姓・町人のなかで、特別な功績のあった者には苗字の使用が免許されることがあった。原則としてはその人一代限りの免許が普通であったが、代々免許として家督を継いだ者に免許されることもあった。百姓も私的には使用出来たので、特物や神社仏閣の札、石造物などには使用している。
③苗字帯刀御免 苗字の使用と刀を帯することを免許されることである。平民にも道中する時など護身用として脇差を帯することは許されていた。許可はその身一代限りが原則であるが、功績顕著な者や特別な位置にある者には、代々御免されることがあった。その職を継者が元服すると其の旨申達して許可を得た。帯刀は明治九年三月二八日、大礼服着用など特別の場合を除いて、太政官第三八号(廃刀令)で禁止された。
江戸時代幕府直属の家臣は旗本・御家人であり、各藩(私領)の家臣は陪臣というがその身分格式に格差があった。私領の家臣は御三家であっても、幕臣に対しては遠慮があった。それを知る次の挿話が「裏木曽川上村史」にある。幕末の文通増加で、道中人足に不足を生じそれに対処しきれなくなった木曽一一宿は、中山道沿線に近い村でまだ助郷負担をしていない村が二〇二ケ村あると村名を名指して、その村に定助郷を割当られるよう幕府の道中奉行に歎願書を提出した。嘉永三年二月道中奉行は中川亮平・鈴木幸一郎の両名を論所地の村に派遣し実情調査をした。同年五月二九日両名は裏木曽三ケ村に入り、川上村庄屋原権兵衛宅に宿泊した。これに際して尾張藩太田代官所は、事前に三ケ村庄屋に幕府道中奉行所の役人の対応心得を通達して粗漏のない様に注意事項を指示していた。その中に三ケ村の庄屋は代々尾張藩から苗字帯刀を免許されているが、幕府役人の御前に出るときには「腰の物帯しまじく候」と、帯刀をして出ることを遠慮するように申し渡していた。庄屋原権兵衛と忰三郎は丸腰であいさつに出ると、幕府役人両名は、「三ケ村の儀は格別の儀に候間、一刀は苦しからず」と仰せられたので庄屋父子は一刀を帯びて御前に出たと記している。庄屋の帯刀免許は尾張藩の免許であって、幕府から免許されたのではないから、遠慮するようにと申し渡したのである。このように幕府から免許されたものなら全国に通用するが、私領の免許であるから御三家といえども、幕府に対しては遠慮があったことがうかがわれる。
④宗門一札御免 宗門改めは毎年行われ、帳面に世帯ごとの人名を登載して、檀那寺の証印を受けて寺社奉行に提出して検査を受けたが、武士は個人ごとに一札に家族使用人に至るまで怪敷者(あやしきもの)は一人もないと誓約書を組頭に提出した。宗門一札御免というのは武士と同じ様に、村の宗門改帳には登載せず別に一札を寺社奉行に提出すればよいのである。苗字帯刀御免の庄屋でも宗門帳に記載して改を受けている年がある。これは宗門一札御免になっていない時である。この様子からみると、苗字帯刀御免であっても、宗門一札御免は永年勤続とか特別の業績が認められた者に限り免許されるものであったようで、代々免許はなく、数は少なかったようにみえる。
⑤御目見 苗字帯刀御免の者に毎年正月六日年頭の御目見が許される。御目見免許の者には九月ころ奉行所より、「御目見当日出席の都合有無の照会状」が達せられる。健康の都合や喪中とかその他の事情で出席できない者があるため出席を確認するのである。出席者は当日の献上品を差上げるのであるが、庄屋の場合は村の特産品を献上することが多く、村により「干蕨(わらび)」二把、岩茸、料紙など毎年同じ品物に決まっていた。特産品が不作で間に合わない場合は扇子二本というようなことになっていた。これに対し藩主からは商人などからの献上品で宝物蔵入れしなかった芸術物品(一流品)が下賜された。これは尾張藩の名古屋城の場合である(福島山村家の場合は、後に述べる)。
江戸後期になると藩財政の逼迫から年賦利付借上金をするようになり、それが後には「差上切り」の献金を受けるようになり、一〇〇〇両以上の献金者も出て、その見返りに各種の特典を与えるようになり、御目見免許も多くなった。後にはお城拝見なども許された。
⑥御能拝見 藩主の代替りのとき、若君誕生のときなど名古屋城内の能舞台で祝賀能が催され、苗字帯刀も御免の庄屋に御能拝見の許可が出されている。元禄七年三代綱誠家督襲名の祝賀能以来たびたび催され拝見が許されている。