山村家冥加金献上者に苗字帯刀御免

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馬籠宿八幡屋覚帳の天明六年一一月の条に「御召出しの家、所々覚」という見出書があり、その初行に「我等組の内の覚」として、次のように記してある。
 御役付、御拝領、御印章、苗字帯刀御免、まごめ、蜂谷源十郎、同源右衛門、大脇兵右衛門
 次に木曽谷中村の一七名が記してあり、全部で二〇名になる。この書上げでは二〇名の人が「苗字帯刀御免」を免許され、証書など拝領したことはわかるが、右の書上げではその原因など詳細を知ることが出来ないが、次の表題の文書があり、これによってその内容を知ることが出来る(楢川村近世史料集(4)楢川教育委員会)。
 表紙
  「天保八年酉三月
   尾州御勘定所御廻し方小島伝左衛門様、加藤弥右衛門様、藪原宿へ御入込の節四ケ宿にて書上扣
                                      奈良井宿     」
 この文書には、山村家勝手向困窮により明和年代(一七六四~)以来、冥加金・無尽金・救金等の勘定不明確のものについて上四宿の役人が藩の勘定所の役人に説明を求めた際の記録が三二件載っている。このうちに右の天明六年(一七八六)木曽谷中の高額献金者に、その功労の報償として苗字帯刀御免などの格式が与えられたことが、「問」「答」の形式で所収されている。
 一問 天明年中冥加金才覚等申し付、苗字帯刀差免、又は小姓格永代、一代四畳敷御目見等品々の格式指遣し、金子取立相成、引続右の例行われ候由の事
 御答 天明年中御冥加の儀、およそ寄金弐万両にも御座あるべくと存候、その訳は御小姓格の家は、千両以上の者、千両以下は四畳敷御目見、ならびに苗字帯刀、五拾両より壱百両までは永代御目見、三拾両位は一代御目見仰せ付られ候と承り及び候
(表)
  右のほか御目見の者二八人、そのほか一代限り御目見、御賞美これなく金子差上候者多人数ご座候得共、谷中一同の儀に付巨細相分り申さず候、右の御礼相行われ候故、自然と谷中金銭乏しくかようの御時節窮民相救候手段御座なく歎かわしく存じ奉り候
 
 天明六年といえば、同三年より打続く飢饉の年であったが、山村家財政困窮に陥り木曽の村々から冥加金の取り立を行っている。同時に山村氏の給地である東濃の村々からも取り立てている。しかし木曽は山村氏の代官として地方支配ではあるが、尾張藩の蔵入地であるから、そこから山村家個人として冥加金の取り立をしたことが至当かどうか、公法法史上の疑義を感ずるが、それについては触れた文書が見当らない。
 この冥加金上納について苗字帯刀御免を許された者は、二〇〇両以上の上納者で木曽では二〇名になっているが、「御賞美これなく金子差し上げ候者、多人数御座候得共谷中一同の儀に付、巨細相分り申さず」と記しているように、村々では、庄屋・組頭等村役人の全員が応分の據出をしていることが、次に掲げる大黒屋文書によってわかる。
 江戸後期になると、大名・旗本とも、財政困難となり、「お上様御勝手元不如意に付」として、領内、給地の村村から献金を據出させるようになり、初めは利付年賦返還としていたが、無利子となり、終には「差上げ切り」というように、返還されない献金になり、「出精に付」という賞言葉に、苗字帯刀御免など特典を下付して相殺した。
 さて、前述の山村献金の当時の記録が、「馬籠宿大黒屋雑録三」(東京徳川林政史研究所蔵)に、次のように記している。
 一天明六年午五月廿六日に、福島御勘定所上役衆石作定一郎様并上松宿扇屋半蔵、三留野勝野太郎右衛門御両人御付添本陣江御出なされ候処、源十郎(八幡屋)、源右衛門(蜂屋)、兵治郎(大黒屋)三人御呼出し付、罷り出候処、近年旦那様御勝手方御借金相重なり諸事御物入御入用多く相成、御相続(あいつづき)の儀相成り難く候に付、今度役人中召連御相談御座候処、致方もこれなくに付、無理の儀に候へ共御借金方元利無利斯の如く并御無尽等もつぶしに致し候ても元来旦那様御助成りと、年内御夕用御暮(くらし)方相調見候処、中中(なかなか)仕払相成らず様に付、貴様方え旦那様より直直(じきじき)仰せ付られ御趣は、源右衛門、源十郎、兵次郎三人にて金子七百両調達上切(あげきり)に、此節旦那様御取立と思われ御出精呉れ候様に仰付られ、三人其の座は畏り引相慎致し候処
 一私(兵治郎)儀は壱人定一郎様へ出、私儀は親兵右衛門隠居に付、去冬兄弟の子供六名江それぞれ割符致し候間、只今迄の通り源右衛門、源十郎同様には相成り申さず候間、此段御勘弁御願申上候、併し至って大金の儀に候間、私壱人にて金子百両指し上申すべく候間、御勘弁今度の御用に御指加へ下さる様御願申上候得共、相済申さず申候、またまた相考相達申候様に仰せられ候、それよりまたまた罷り出で百五拾両と申上候得ば、右申す通り貴様方は、旦那様より直直仰せ付られ候儀に候得ば、手前勘弁これなく候、まづ申候て見候得共貴様次第子え相談割合にて相出候方宜敷、是は内分の儀候、夫とも此方より表達て申付候得は、金高相登り申付候間、貴様百五拾両弟子江百弐拾両申付候、両人名目に相成候ては左様致さず候ては御上江相済申さず候、夫より御親父共御相談兵右衛門壱人の名目にて右の通御出精の方と仰聞間、左様ならば弐百両調達致すべく候、併五ケ年に指上申度申上候処、御勘弁の故、承知相成申候、蜂屋・八幡屋は割金の通
 一金弐百三拾三両壱分五匁  蜂屋
 一同 同断         八幡屋
 一同 弐百両        兵右衛門
 一金拾両          七郎兵衛
 一金弐拾両         勘右衛門
 一金五拾両      道重、利右衛門、善七、嘉兵衛、清人、平七、(清水)紋左衛門、(峠)源治、(丸山)喜三郎、(中のかや)五兵衛、以上拾人
  右の通りいずれも当年暮より戌年迄五か年に調達の事
  是は近村に其節仰せ付られ候金高
  山口村百六拾両、湯舟沢四拾弐両、田立村七拾両、妻籠百六拾両、落合木曽方斗り百八拾両、中津川村、中村、河上村三か村千弐百八拾両
  右の通り風便の頼り申候

山村家献金割付書

(大黒屋雑録三 東京都徳川林政史研究所蔵)

天明6年山村役所苗字帯刀御免へ申談書(馬籠大黒屋文書)