宿問屋の苗字帯刀御免は、安永七年(一七七八)山村家給地の中津川宿問屋中川万兵衛、同じく落合宿の塚田弥左衛門が苗字帯刀御免を許されている。その八年後の天明六年には前述した山村家勝手向不如意に付として木曽の村々を始め山村家給地の美濃の村村が「差し上げ切り」の献金をした。木曽では高額献金者二〇名が、その功績により代々苗字帯刀御免になった。明和年代(一七六四~)ころより、大名や旗本家が財政に破綻を来し、裕福町人、百姓から借入金・冥加金・献金など受けるようになり、その見返りとして、前述したような栄誉的待遇を与えるようになったが、なかでも苗字帯刀御免は魅力的な格式であった。
こうした状況に対し幕府は享和元年(一八〇一)七月、幕領、私領の百姓・町人にみだりに苗字帯刀を許可することを禁止する法令を達した。文化一四年一一月木曽一一宿の問屋一同連名で、「恐れ乍ら願い上け奉る口上の覚」と標題の「苗字帯刀御免願」(県史資料編巻六所収)を提出した。この願書によると一五、六年以前(享和元年)にも、御領分落合宿より先々の宿の問屋共は、ざっと苗字帯刀御免になって苗字を書いているが、木曽の宿の問屋は苗字が認められず、他宿に対して見劣りがし、助郷の掛合締り方にも支障を来し不都合をしているから、他宿並に苗字帯刀御免される様願い出たが「栄耀(えいよう)の沙汰」に響くとして据え置かれたままになっていると述べている。これは、はからずも前述の享和元年七月の幕府禁止令触出しの直後であったから取り上げなかったとみられる。しかし、近年道中両奉行所により御触書到来の請印帳面の戻しを見ると、落合より先の御領分問屋共も他領の問屋同様に残らず苗字を記している。これは助郷掛合締り方のため苗字帯刀御免になったということである。同じ尾張藩領内において「木曽斗り苗字認め申さずては、他領宿宿え対しても面目にも相懸り、助郷掛合締り方等に引けを取ることになり残念に存じますから、苗字帯刀御免仰せ付けられたい」と願い出ている。しかし再三のこの願い出に対しても許可はされなかったようである。