『楢川村近世史料集(2)』所収に標記の苗字帯刀願がある。これには木曽一一宿の問屋を始め宿村の諸役人の往古よりの家筋来歴を掲げ、役筋を仰せ付けられ数代相勤めてきた者ばかりである。近年は幕領宿の者も苗字帯刀御免の者もあり、他領の宿宿においては、問屋・年寄・本陣・脇本陣等も多分に苗字帯刀御免になっており、掛合等に付いても不利を来している。このような現状であるから他領宿宿と相対掛合の節に恥入り不弁利なることもあると、職務上の難儀なことを繰り返し述べてさらに次のように続けている。
前略苗字帯刀の儀御免成し下し置かれ候様追追願上奉り候へ共、御改革以来願の通仰せ出され難き旨に付余儀なく差控罷り在り候処、親の代御免許蒙り候者共は名代等相勤候節節伜苗字帯刀仕来り候儀に御座候所、親死失又は隠居等仕り候後差控仰せ付られ候、其者共等に行の姿にも相成歎ケ敷、且近来は谷内在庄屋共にも帯刀御免許も相成候事に付、諸家御通行の節節右等の者は勿論他領助郷名主共追追帯刀御免許多分に付人足召連罷り出候者共は帯刀仕り、御用向取扱差図いたし候問屋年寄共却て帯刀も不在威勢も薄相成自然と恥入談判等に付不弁利且大御通行等にて多数の人馬支配差図等申付候節、見通しも宜しからず人足馬士等に至る迄、あなどり勿間敷義も候て御継立向御差支相成難渋至極仕り、不調法も出来遠方迄お詫として罷出、雑費等多分相嵩み宿入用も相増宿相続に差支、其の上御用御差支にも相成候義に付、恐多御願品には御座候へ共、庄屋・問屋・年寄・本陣・脇本陣え一同苗字帯刀御免許成し下し置され候様、只管願上奉り候、以て御免許蒙らざる者共、左に申し上げ候
贄川宿年寄 三左エ門、仝 繁右エ門、仝 真一郎
奈良井宿庄屋問屋、脇本陣 深太郎 仝宿本陣 九郎右エ門
三留野宿問屋、亮左エ門
天保、慶父六郎左エ門苗字帯刀御免を蒙り父死去後役義仰せ付られ苗字帯刀御差押相成差控罷り在り候
妻籠宿本陣問屋 与次右エ門
馬籠宿年寄、脇本陣 源十郎
苗字帯刀相願候者名前四十五人
右の者共儀前規申上奉り候通り、苗字帯刀御免許仰せ付られ下し置かれ候はば役威も相増御用弁出精、宿永続の基とも相成申すべくと重重有難き仕合に存じ奉り候以上
安政三年(一八五六)辰四月 苗字帯刀の者廿一名連名
右の願書の願人は苗字帯刀の者二一名の連名になっている。そしてこの申請書には、天明六年の山村家献金で代代免許になった者二〇名のうちの子孫八名が、親死亡により後継免許が差控られているから免許されるようにと書上げられている。これからみるとこの願書の願人二一名のうち一三名は、天明六年(一七八六)から安政三年まで八〇年の間に免許になった者であることがわかるが、名前・役職の記載がないから詳細は知ることが出来ない。『大桑村の歴史と民話』(志波英夫著)に、文化一〇年に須原宿問屋西尾・木村の両名が、尾州より苗字帯刀御免仰付られたとあり、三岳村史に安政三年三月三尾村庄屋原伝兵衛が、父の死後代代御免による免許を受けたと記されているが『県史史料編木曽』を被見しても庄屋職で苗字を記している文書はほとんどみられない。右の安政三年の苗字帯刀御免願は、庄屋・問屋・宿年寄・本陣・脇本陣等、宿村役職の四五名に上る願書であるが、この結果のことはわからない。