山口村の庄屋の苗字帯刀御免の確かな文書は見当らない。先にみた安政三年四月の木曽谷中庄屋を始めとする宿村役人四五名の苗字帯刀御免の免許願書が申達されているが、それより二年前の嘉永七年(安政元)一〇月、山口村外垣・楯両庄屋が「今般身柄の家付苗字帯刀御免願上候に付」として由緒書を提出している。この「家付苗字帯刀」の意味がよくわからないが、両庄屋が揃って提出していることや、谷中一同の願書の様子からみると、そうした機運があり、まず初めに個々に提出し、そのあと谷中全体が提出したと思える。その結果がどうであったか確かなことはわからない。両庄屋の由緒書を参考までに掲げると次のとおりであるが、両庄屋とも庄屋就任以前の経歴については調べようがなくわからないことをお断りしておく。
①外垣庄屋由緒書
恐れ乍ら書上げ奉る口上覚
一私先祖之儀は美濃の国に候て、斎藤義龍の家臣田口玄蕃と申者にて、永禄八年斎藤家没落の節浪人仕り、木曽山口村に住居、伜牧野弥平次と名乗り、天正十二年には木曽義昌公より玉唱山三〇石の主将を蒙り、其後病身に付御暇給り、又々山口村に住し伜孫左衛門え慶長五子年肝煎役仰せ付けられ、代々相勤来り家筋にて、当時範助十三代庄屋役相勤来候、其外先祖より伝り候品馬具壱通り・轡共、槍壱筋所持候、然処今般身柄の家付苗字帯刀御免仰付願上奉候義に付、由緒書荒増上げ奉り候所、斯の如に御座候以上
嘉永七寅年十月 山口村庄屋 範助印
②楯庄屋由緒書
恐れ乍ら書上げ奉る口上覚
一私先祖の儀は木曽殿家臣楯六郎親忠の後胤にて、木曽義仲公没落の後、右子孫の浪人仕り山口村に住居仕候由御座候、其後家筋等の御吟味これあり候て、肝煎役仰せ付られ私迄十二代連綿と相続仕候、且又先祖より伝り候品、槍弐筋所持仕候、然処享保十四年酉十月川並御用仰せ付られ、庄屋兼役にて相勤申候、尤苗字帯刀は初代当御役所において御免仰せ出され候、右藤十郎義三十七年庄屋兼役にて相勤申候処、兼役にては不都合の旨仰付られ據無(よんどころなく)御願申上奉り候て、親藤十郎儀別家仕り川並御用斗相勤、是迄相続罷在候、私方の儀は右藤十郎伜にて庄屋役相勤申候、尤も先代より尾張様之御目見御免相成只今にては、別家楯藤十郎方にて矢張御目見等代代仕り候
今般身柄の者其家付苗字帯刀願上奉り候に付、家筋の次第荒増口上奉り候以上
嘉永七寅年十月 山口村庄屋 平左衛門印