幕末になると中山道の交通量が増加し、宿継・助郷の割当等宿方の用務が増大して宿役人の任務が多忙繁雑を極めるようになった。また一方では大名家・旗本家の財政が逼迫して、その援助を宿の財産家に頼るようになり宿役人を勤める人達が負担助力した。こうした幕末の社会状勢の中で、宿役人たちは苗字帯刀御免などの格式を与えられ、社会的に優位を占める位置に置かれるようになった。こうしたことから、宿村役人が会合した場合や山村家役所に出仕した時など苗字帯刀御免の格式を持たない庄屋達に比して優位を持つのは当然の成り行きである。こうした状況の中で役所に出仕した場合の席順について入り組が生じ、宿年寄組合から山村役所に席順の序列を示す様申し入れがあり、山村役所は尾張藩に指示を照会した。この一件に関する一通の文書(馬籠八幡屋蜂谷保氏蔵)がある。読下しにして掲げると次のとおりである。
恐れ乍ら伺い奉る口上覚
一今般宿年寄、村庄屋順席の儀、新例仰せ出されるに付、自分以後心得のためか条を以って左に伺い奉り候
一御殿様御慶事の節、是迄宿年寄上席に御座候、以来は如何(いかが)に御取斗い下し置なされ候哉、伺い奉り候
一御殿様え御年礼の節、宿宿問屋・年寄共、罷り出候節、在郷庄屋共も同同(どうどう)相勤候、是迄宿宿相済し候上、在庄屋共え仰せ付られ、御槍間御番所に差控え罷り在り候節も、宿宿年寄上席にて罷り在り候、以来如何御取斗い相成候哉、伺い奉り候
一御役所え年寄共罷り出候節は、宿用・村用に抱らず是迄上席仕り候得共、新規仰せ出され候に付ては、宿用の節のみ上席、村用の節は次席に相成候趣に御座候、此段伝馬共え付願の節、又は御割符願等の向上席は勿論に御座候得共、其の外村用の節は、すべて次第の御取斗いと恐察奉り候、右の節節当時年寄共の外村年寄と相唱し役所御願申上げ相勤なし候様仕度此段伺い奉り候
一御不幸の節御野辺送りの儀、是迄宿宿問屋・年寄并びに御目見の者、次に在庄屋・組頭・在御目見の者と相列候得共、以後如何御取斗いに御座候哉伺い奉り候
一身分茶会の節は、階級次第なすべくとの御儀、此段宿宿四畳敷、帯刀御免、御側格等々御取立相成候者共、何連においても在庄屋上席致しなし候儀に御座候哉伺い奉り候
右か条の趣自宿年寄共にも申聞せ度存じ奉り候に付、恐れ乍ら御書下げを以って御下知願上奉り候
右の伺いを尾張藩に申達したところ次の様に回答があったとしている。
在庄屋、宿年寄席順の儀、追追差し入組候に付、先般尾州表之問合せに及び候処、左の通り申し来り候
宿村
庄屋
宿年寄
村年寄
組頭
但シ身分ニ付参着の節
尤(もっと)も階級次第万事
右の通り向後相心得べく事
亥 十月
「前書のとおり宿村へ一枚つつ、在庄屋・宿年寄へ一〇月二七日御役所においてお配り渡し申され候」と付記している。
同一〇月二九日山村役所月番原彦八郎から、宿年寄組合から一人、在庄屋総代で四、五人御役所へ出頭するよう通告があり、宿方惣代組合から贄川宿年寄三左エ門・上松宿年寄小平次・馬籠宿年寄勝七の三人が出頭して、これからの席順は、往還御用関係で出頭した場合は宿年寄上席、地方(じかた)ご用で出席したときは在庄屋上席と心得るように仰せ付けられ、前記のか条書伺書のとおりに心得るように申し付けられた。