山村家は天明六年に木曽谷中の宿村や美濃の山村家領地内で、二万余両に及ぶ冥加金の割当をし、その見返りに名字帯刀御免などの栄誉的格式を与えたことは、格式の項で述べたとおりである。
大黒屋日記によると、山村家は木曽一一宿の富豪商人を始め谷中の村村からも冥加金の取り立てをしている。また一方では久々利の千村平右衛門家が、借り入れ金の申し込みをたびたび行っている。財政困窮は各藩・旗本家とも同様で、藩の出入商人や、支配下の宿村の裕福な商人から冥加金の上納・借り入金は一般的なことになった。この様な財政の破綻はいつころから始まったか、はっきりとその境はわからないが、馬籠宿大黒屋の日記帳、及び同家の残存する証文の束の中から証文の年月をみると明和年代(一七六四~七二)ころの様にみられる。前掲した山村家の天明六年(一七八六)の文書に「差し上げ切り」となって、返済をしないものであることが、初めから明記されていることをみても、この様な事態になっていたことがわかる。
大黒屋の文書の中に「久々利様」と記した証文の束がある。その中に寛政二年(一七八〇)の年賦添証文がある。これをみると、千村平右衛門家(三〇〇〇石)の財政行詰りと、借入金の返済困難な経緯がわかるから参考までに掲げると次のとおりである。
年賦添証文之事
屋敷勝手方為要用金明和三戌年より安永二巳年迄止々金三百拾両致借用年賦等ニ相極有之候処、勝手方不如意ニ付、年賦極通之返済相滞候ニ付、右年賦残金弐百七拾両之内江壱ケ年ニ米拾四石ツゝ拾ケ年之間致返済候ハゝ右証文も御返シ勘定御済可被下旨止々御申達有之御勘弁之御事ニ候得共、此節ニ至候而ハ別而勝手方不如意故、右返済方も不相模通候、併無據筋ニも候間、右之内当戌暮より来ル子暮迄、拾五ケ年之間壱ケ年ニ米五石ツゝ為年賦米、落合村蔵米を以御渡可申筈、尤満年ニ至候ハゝ古証文御返被下候積ニ相極候、然上ハ聊違変有之間敷候、為其仍而如件
寛政二年戌十二月 鈴木所治助 印
小栗司馬 印
加藤作右衛門 印
木曽馬籠宿 吉田与一右衛門印
大黒屋
大脇兵右衛門 殿
千村平右衛門家大黒屋宛借用証文
右の年賦添証文は、久々利の千村平右衛門家が家計費に窮し明和三年(一七六六)に、金三二〇両を安永二年まで八年間の年賦返済で借り受けたが、毎年家計費が赤字になり契約の年賦返済金一年分だけを返したのみで、残金二七〇両の返済方策が立たず滞り付いてしまったので、毎年米一四石ずつ一〇か年賦返済に切替えるように契約更新をしたが、これにても返済の余裕がなく不履行になってしまった。こうした滞りの中で、借り入れより二四年後の寛政二年に、また残額を米で年五石ずつ子年(文化二年)まで一五年の年賦返済として三度目の契約変更をした。この米は落合村の年貢米を充てることにした。年賦添証文には「満年ニ至候ハゝ古証文御返下され候積ニ相極候、然上ハ聊違変これある間敷候」とあるが、大黒屋に証文が残っている所をみると、この契約も不履行であったと思われる。