度重なる山村家の献金要請

829 ~ 832 / 667ページ
大黒屋日記から山村家献金の記書を拾い上げると次の献金がある。度重なる献金に「また候」とか、「無據(よんどころなく)」とか、困惑の様子がみえる。読下しにして掲げると次のとおりである。
 ①天保六年一一月二四日、同日福嶋殿様(山村家)御勝手方御立行至極御難渋ニ付、一一宿村村御回宿「御用金」仰せ付けられ、原九郎左衛門様御越遊ばされ候、宿方付添須原宿山本市左衛門殿、当宿本陣御泊り遊ばされ候、銘々御呼出にて、御難渋の趣遂一仰せ聞され候、その節罷り出候者蜂谷源十郎病気に付、名代源右衛門出これを承り、拙者を始め源八郎・兵治郎・利兵衛・中のかや五兵衛・峠又蔵、それぞれに御頼これあり候
  同日原九郎左衛門様御出立山口村え御越遊ばされ候
  一一月二六日御用金調達の者、金百五拾両蜂谷源十郎、金弐拾両大脇兵右衛門、金弐拾両中のかや五兵衛、金拾五両峠又蔵、金五両扇屋兵治、金高〆弐百拾両、外に役人仲満にて御冥加相勤申候
  上納年限は五か年までに調達する筈に御願申上候
 右の文面の様子から見ると、山村家の家計費が赤字となりそれを補うため、谷中の商人・百姓から「御用金」と称して金の無心を要求して、山村家の家臣が村々を回村し、割付的に金集めをしているのである。馬籠村で二一〇両の據出をしている。五年の間に納めるのであるが、木曽の宿を全部を回村しているからその金額は相当額に及ぶことになる。天保年代の馬籠村の年貢米は八九石九斗五升(金納一両に一石六升替)であったから、御用金の二一〇両は年貢米の金高の二・四八倍に相当する。
 大黒屋日記から右以後の山村家調達金の記事を拾い上げると次のものがある。
 ②天保一〇年六月一二日福島太田長左衛門殿宿村へまたまた御回村にて、それぞれ身柄の者共え御頼金の儀に付、当宿源十郎殿拙者両人にも御頼これあり候
  同一三日太田長左衛門殿御同道に付、またまた御頼これあり、外宿村共御請印の事に御座候間無據金拾両御引受申上候、もっとも調達の儀は当亥冬五両、来子(天保七年)七月五両両度に差上げ候筈に御座候
  六月二〇日福島御勘定所調達金御証文至来に付、八幡屋へ拙者の分も預け置申候、山口村外垣、楯両庄屋分、湯舟沢島田家分も同様に差遣候
 ③天保一〇年一二月一一日 福島御役所より当冬御入用金弐百両、我らに賄呉れ候様御頼これあり候に付、同日出立源十郎殿・島田新左衛門殿・拙者三人中津川辺に借り賄に罷り出候
 ④天保一一年八月二日 福島御勘定所下役加藤兵治殿御出張にて、源十郎・拙者・外垣三左衛門・仁左衛門(八重島)四人え、金子御頼の儀仰せ聞され、秋の年貢収納米をもって御返済の条件書入れに付、金五拾両当月二五日限り返済条件で御引受申上候
 ⑤弘化二年五月七日 福島御用達役所大借に付、谷中三二ヶ村御呼出になり御仕法に付、当宿庄屋島崎吉左衛門拙者(大脇兵右衛門)御呼出に付出勤仕り候
  弘化三年七月八日 福島御役所御仕法立に付、御用達所御役人宮地源左衛門様御吟味方川北龍助殿昨夜五ツ半時宿村御回村にて当着遊ばされ候、同日御呼出にて源十郎・兵右衛門・中のかや五兵衛三人え金百両御冥加御頼これあり候、内訳金五十五両源十郎、三拾両兵右衛門、拾五両五兵衛都合百両仰せ付られ候
  外に八十両宿賄にて調達致し呉れる様御頼これあり候、右の御答申上候には三人にて金八十両、宿方にて二拾両御調達申し上げ度御請書仕り候、小割の儀は先触にこれあり候割合に致すべく候、甚もって難渋仕り候得共、谷中一同の儀に付、余義なく御請申上候
 ⑥嘉永五年六月四日 山村様御勝手方御仕法立に付、又候、調達金身柄の者共へ御頼み相成り、宿方分無尽法にいたし金高三拾両発起、壱番・弐番分御上様にて御取り、三番口敷金にいたし十五年終会にいたり拾両別段差し加え都合金高百両御調達仕り候に付、右この度御心よく御目付代鈴木仲右衛門殿、小谷民治郎殿御両人御答申し上げ則御請書差上申し候、木曽谷中にて三千両御調達遊ばされ度旨御割出しに相成り先壱人白州新五右衛門様尾州表へ御出府の節、島崎吉左衛門、原三右衛門、蜂谷源十郎、右三人の者御出迎に付、御申渡これあり候由、後日承知いたし候
 右の嘉永五年の山村家の木曽谷中宿村における冥加献金の調達目標金高は三〇〇〇両で、これが調達出来るように各宿村に割付したと、白州新五右衛門様名古屋出府の節お出迎えの節承ったとしている。山村家の知行高は、美濃に領地があり五九〇〇石であった。年貢収納高は免率平均四三パーセントとして二四五一石となる。嘉永五年の尾張藩中津川蔵米相場は一両に七斗八升であったから、山村家の年貢米を金に換算すると三一四二両余になる。調達金の三〇〇〇両は山村家の年貢収納高に匹敵する額である。
 このような山村家の冥加金の調達に対して山村家の知行地である美濃の宿村では、安永七年(一七七八)以来「名字帯刀御免」が免許されていた。木曽谷中ではそれより八年後の天明六年(一七八六)二万両余に上る献金の際、高額上納者二一名が免許されたが、永代免許の者も後継者には免許されずにいる者もあり、その後の免許がなされないままであった。文化一四年(一八一七)一一月、木曽一一宿問屋一同連名で免許を出願したが許可にならなかった。大黒屋日記天保一〇年九月二七日の条に「山村治左衛門様尾州へ御越遊ばされ候に付、兼て御願下し置かれ候趣仰せ聞され候」と期待をしていたが、許可がなかったようである。