幕末には大藩の尾張藩も一般の例に漏れず財政破綻を来し、豪商・豪農から献金を受けてその場を凌いでいた。嘉永二年支藩高須藩から宗家に入った慶勝は、藩財政の立直しにかかり、自身の手元金二万両を二〇両に減じたのを手始めに、藩の諸経費を大削減した。調達金の償却分と元利は年に三〇万両にも上っており、安政元年には「何程少分たりとも御返済の途は相絶え」として、領民の調達金を「差上切り」とするよう藩の頭取が回村して実情を述べ説得した。領民は主意を聞いて請書を差し出した。翌三年には藩財政の公開を行い、全藩士、領民の協力を求めた。当時の藩債は金一七七万九〇八三両余、米一二四〇石に上っていた。この利金は藩の経常歳入額に匹敵していた。藩では藩士一般の減禄も行った。嘉永六年浦賀に異国船来航以来海防軍備の必要に迫られたが、右のような藩財政の逼迫では豪農商や領民の献金によるほかはなかった。『県史史料編巻六木曽』に「安政三年十月村村御冥加銭上納調書、木曽在弐拾弐ケ村」と表書した文書がある。これは右に述べた尾張藩の財政立直しのため領民に協力を求めた冥加金の上納調書である。この調書の表書に木曽在二二ケ村としてあり、一一宿村は除外されている。これは宿の豪商・本陣などは別に大口の冥加金を上納しているからである。
各村とも総家数のうちから生活困窮者を除いた軒数を対象として一軒当り、一年に三〇〇文ずつ五年間負担することに決めている。このうち山口村の分を抽出して掲げると次のとおりである。
覚
一家数百六拾弐軒 山口村
内九軒 極難渋の者
残って百五拾三軒
御冥加銭 四拾五貫九百文 但壱軒ニ付壱ケ年三百文
此金六両弐分弐朱ト五百弐拾四文
右は朝暮わらじ等作売捌、五ケ年の間差上奉り申度、
〆金弐拾九両弐分弐朱拾貫三百弐拾四文
安政三辰年十月 木曽谷廿二ケ村
庄屋 印
御奉行所 与頭 印
この年の木曽二二か村の冥加金は右の通りであった。この文書は王滝村庄屋松原彦八家のもので、文書の末尾に次の朱書がある。「此の如く御冥加銭献納仕り候処、其の節村村庄屋江は一葉葵模様付御盃一枚つつ、小前の者共之は一葉葵模様付御扇子壱本つつ下し置かれ頂戴仕り候、御褒美品目紙アリ」と記している。