山口村の用水は、それぞれの沢水から取水している。山は急峻で沢は浅いので水源涵養のためそれぞれの沢の水源地には江戸初期から水持林の区域が定められて禁伐林になっている。沢ごとに用水組合があり規約を設けてその保護管理をしてきた。享保の検地(一七二四)を境にして、それより以前の田を「古田(こでん)」といい、その後切り起こした田を「新田」として区別し、古田の水利を優先にしてきた。古田につける水が充足しなければ、新田に水をつけることは禁止されていた。毎年のように日照が続くと水枯が生じ雨乞い祈願を行っているが、新田灌水の紛争も生じその記録も残っている。外垣庄屋用留帳寛政一一年五月二日の条に「宮洞沢井堰新田灌水の紛争」があるから要略して掲げると次のようである。
洞(ほら)嘉兵衛が来てその申し立てによると「私家下の田一つ新田であるが、当年は水を掛けてはならないと井下の衆一統から申され迷惑している。これは私が起こした田ではなく、下村の田で親の代よりお預かりしているもので、私が勝手に耕作しているのではない」という。なる程その田地は嘉兵衛の祖父惣三郎代より以前に、平兵衛という者が住居しているとき、家の上に井戸沢の水が流れていたので田を起こしたが、享保の検地後に起こした田であるから新田に相違ない。井下の衆が申すとおり、新田の分については水を掛けることは出来ないとしているから、そのとおり受け入れるほかないと思うが、ほかの方の用水の事情も調べてみるからといって一たん嘉兵衛を帰した。
それから召使松右衛門を東・上瀬戸へ使にやり、上瀬戸藤治、東(ひがし)助八を呼び、洞嘉兵衛の事を話し、新田堀替の所までも水掛け差留になっているかと尋ねたところ、助八が申すには「このことはまだほかでは話してないが手前にも申し分がある」といい、「それはお寺の田で作太郎の傍の街道上三つ、これも桂峰様住職の節畑を田に作り替えており、また朴の木にても炭部屋の跡を田に拵らへ、門(かど)にも少し田を起こしており、下林にても家下雪隠の跡を田に直し、そのほか少々ずつ畑を田に直しおり、上林にても畑を田に切り替えており、そのほかの所にても検地以後に少々は田を切り起こし広めている。右の者をそのままにしておいて、手前分ばかり新田に水掛け差留られては承認出来ぬから、よくよく取調下され」と申し引き取った。下林組頭孫八・東助八・上林善吉三人連れで参り水掛けの事を相談したところ、寺の方は水不足の節は本田のみ田水を掛け、新田の方は水を掛けないことにすると引受けられたからそのように決めた方がよいと三人が申すに付、洞嘉兵衛を呼び本田に水払底の時は新田には水を掛けないようにせよと申し渡した。そして井下の家にも当年より水払底の節は新田には水を掛けないようにすることにした。新田は本田と同じ取扱いは出来ないが、いつまでも植付けが出来ないということもないからと、みな納得してこのように決まった。