江戸時代の馬籠村の用水で文書の上に見えるのは下(した)川用水のみである。八幡屋覚書文化六年六月の条に、蜂谷源十郎が庄屋島崎吉左衛門に、下川井水の水割を次のように確認している。
下川水割先達七分、三分に別有候得共、我等六分と覚居候間、其段庄屋元へ申入候所、我ら吉左衛門両人にて、振相尋候所振相見え申さす候、手前振相尋候所上井へ六分、下井へ四分、祢の上取り手(砦)へ七分、東田へ三分、右之段六月七日に割直し申候
この様子からみると馬籠宿に取水の用水は下川用水が唯一の水路であったようである。下川井水は始めは塩沢の塩沢橋の下方中山道下辺から取水して、中山道下の斜面を水路が通り、宿場裏の「ヲバ谷」などの難所は二町余も筧を掛けて通水をしていた。場所の悪い斜面では大雨があると崖が崩壊して筧の腕木が倒れ通水が止まることがしばしばあった。そのたびごとに大変な修繕になり、宿場の人だけでなく馬籠村全部の人が協力して負担をした。
その被害はたびたびのことであったので、手をやいた宿では一計を案じ隧道を掘り抜いて通水をすることにした。天保一四年(一八四三)大黒屋日記七番にその記事がある。その隧道も万全ではなく、崩れ抜けて水が吹き出し、修理をしたがまた崩れ、再度の修繕も完全とはならず難儀の繰り返しで、結局はまた前々のとおりの筧樋に戻し通水をした。大黒屋日記の記事を原文のまま掲げると次のとおりである。
(表)
下川井水の水路は崖の斜面を筧樋を用いた場所が多かったので、たびたび崩壊して水が止まり難儀をした。隧道を掘り通水を試みたが、三年後の弘化三年には隧道も潰れ抜けて多額の経費を掛けたが無駄に終わってしまった。その結果以前のとおり筧を掛けて常に修理を行い、備を十分にして万全に心掛け崩壊に打ち勝つように心掛けることであると述懐している。そしてその後は崩壊に至らぬように事前に修理普請している様子が日記の記事にみえる。
(表)
下川用水の維持・修繕等の負担は宿場だけでなく、古くから馬籠村合体で負担している。これは江戸以前よりの仕来りと思われる。
八幡屋覚書に文化六年の水割の記録がある。その水田をみると根の上・砦へ七分、東田へ三分となっている。この水田を詮索すると馬籠坂の下の水田である。天正二年(一五七四)織田信長が武田氏に奪取された岩村城を奪還せんとして、岩村周辺の遠山氏の拠点に一八箇所の砦を固めた。それを武田勝頼が木曽氏を先鋒(ぽう)にて攻略した。その戦に戦功のあった木曽氏の麾下の将島崎監物に次の朱印状を与えている。「今度仍戦功出馬籠坂下之内五貫可宛行候云々」とあり、馬籠坂の下の田地五貫を与えるというのである。察するにこの田地は、先にみた水割の田、東田・根の上・砦の地であったと思われる。この様子からみると、これらの田をうるおしていた下川用水は、馬籠の成り立ちと歴史を共にしていた井水といえる。
馬籠下川用水の図