享保九年(一七二四)の検地後に切起された田畑を新田として区別している。検地の六年後の同一五年に田一町八反五畝二三歩、畑四町五反五畝二八歩が起された。青野原は草地で耕地の開墾可能な余地であるが水利が伴わないので畑地が多い。それより三〇年後の宝暦一二年には水田六町歩が開かれた。次いで安永三年に三町歩の水田が出来た。下欄の第39表に示すとおりであるが、この開田は宿の商人大黒屋・八幡屋の資力によるものであった。これらの新田は良田で、古田の中田に相当する地力を有している。反当たり年貢米高は二斗二升~三升に査定されている。この後も水利の整備とともに開田は徐々に進んでいった。
(表)第38表 宝暦一二年切起の新田の場所別面積と反当年貢高
(表)第39表 馬籠村新田畑切起場所