稲の品種

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前述の嘉永六年丑秋日記帳、安政四年巳秋日記帳に「籾挽おぼえ」として、稲の品種とその収穫高が記されている。嘉永六年の記録は次のとおりである。
 一米弍拾壱石八斗  石州
  右は家畔、八升蒔、中おさ中曽根、二畝町、大畝町、中長通り隣下のきまで
 一同弐石 賄助
  右は下大畝町
 一同弐石四斗三升 五千石
  下島おこし
 一同三石弐斗 ちこ種
  右は家畔壱斗蒔
 一同壱石九斗四升 遠州種
  右は新屋軒
 〆三拾壱石三斗七升
 
 右によると作付品種は、石州・賄助・五千石・ちこ種・遠州種の六種であるが、そのうち収穫量の三分の二は「石州」である。これらの品種の生産地は確かなことはわからないが、種名を見ると東海以西の暖国産のようにみえる。

嘉永6年丑秋日記帳 (山口村宮下敬三蔵)

『県史史料編巻六木曽』に「享保一九年木曽谷中農作物名書上」が所収されている。これに穀類の品種の名がある。稲には「わせ」二九種、「なかて」三四種、「おくて」三八種、もち二五種合計一二六種が上げられている。このように多くの品種が上げられているが、気候からみれば寒地に属し、半夏生前に植付を終えなければならないと記したものが多い。従って「おくて」は収量は多いが年によっては収量減となるから「わせ」「なかて」の方が無難であるとしている。また同一品種を数年連作すると収量が減ずるから、当地より高い地方の品種に替えて作るのがよいとしている。田地の状態に合わせて数種を栽培していたようである。
 裏作として大麦の栽培をしているが、裏作をすると米の収量が半減するから多くは作れないといっている。当時の肥料状況からみると、馬肥に頼っていたから限度があったと思われる。大黒屋日記では大麦一〇俵と記しているから精麦すれば二石位になる。小麦は畑作であった。慶弔時の振舞いに「うどん」がよく出てくるから、ご馳走として手打ちうどんが使われていたようである。
 八重島の嘉永・安政の日記帳に「大豆・小豆おぼえ」がある。
 一壱石壱斗七升大豆
 一弐斗弐升 かす大豆
 一三斗壱升 小豆
とあり、毎年味噌原料として大豆の収穫を確保していた。なお味噌は「三年味噌」といって三年分の貯蔵を有するように常に努めていた。