その他の産物

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右の尾張藩領の産物帳に掲載されていない同年代の産物がある。これは先に検地の項で触れたが享保九年検地の際、来村した検地奉行に提出した村況報告のなかの、代官山村家に従来納めてきた椀飯に、
 
 柿渋   四、五斗程  年々
 かち栗  壱斗弐升   隔年
 
がある。山村家に納める椀飯は検地後廃止になったが、山口村の産物であったことは変わりなかった。
 同報告書には、村の産物が次のように書上げられている。
 一馬百匹程
 二当村に蚕の儀、作時に候故、少々ならでは飼い申さず候、糸など取り申儀御座なく候
 三当村にて麻三、四貫匁程取り申候
 四紙漉弐拾人御座候、紙高四、五百束程漉申候
右の書上げは田畑の耕作のほかに、山口村の農産副業を記したものである。
①馬百匹程とある。馬は百姓にとっては、馬屋肥を踏せるほか諸種の運搬にも使い、一軒一匹は絶対の必要数で、馬を持つことは一人前の百姓として自立の目安でもあった。また馬は藩としては軍馬確保のためにも、計画的にその数を把握し、人の数と同様に取り扱っていた。村況の調査にはいつも書き上げられている。当時の山口村は八六軒であったから馬数は一軒一匹宛より多い。このことは反別を多く持つ農家があったことを物語っている。馬に子を生ませると役所に届け、役所の検査をうけて規格に適った馬は役所で買い上げ、規格に外れた馬は持主が自由に売買してよいことになっていた。買上げ馬は五両位で、雄馬や規格外の馬は三両以下であった。
②蚕はいつころから飼うようになったか、はっきりしないが米作のない北部の村では早くから飼っていたようである。山口・馬籠村などは田植の時期と一緒になるので、一般の百姓は飼う者が少なく、手間に融通の出来る大きい農家で少しずつ飼っていたようである。繭は中津川村の商人に売り、自家消費としては屑繭で真綿を作る程度であった。北部の村は、福島の商人に売り、福島では糸を引いていたようである(蚕は後述する)。
③麻は古い時代から衣服の原料として作ったが、繊維が細いので薄地の布になり、寒い時は重ね着をしなければならなかったから、仕事着は苧(からむし)の繊維で織った布を着ていた。江戸中期から木綿が入るようになり、木綿糸は染色が自由に出来たから機織をするようになり、衣生活は木綿の普及によって、革命的な変化をもたらした。
④紙漉は江戸初期から田立・山口・湯舟沢村などで行われていたようである。享保九年のこの書き上げでは二〇人程が、四、五百束程漉いていると記しているから、江戸時代でもこのころが盛んに漉いていたようである。