享保の林政改革は、尽山の様相を呈した山林の回復を回るため、伐木停止にも等しい規制を敷き小桧曽の育成をして、山林の回復を図ることにあった。当時は植林の技術がまだ進んでいなかったから、自然育成に頼るほかなかった。このため年貢木を廃止して米納に切替、家康以来谷中住民に免許されていた御免木六千駄を金支給に切替、焼畑の禁止等山林に対する規制が打ち出された。このため杣・日用組は失業して生活が困窮し、三浦山の雑木薪の伐出しを嘆願して生活維持を訴えた。しかし徹底した伐木制限は少しも緩められる事なく、施業案による伐木が再開されたのは約六〇年後の寛政三年のことであった。伐木停止後の谷中住民の生活助成に資するため藩は福島役所、木曽材木奉行所を督励して、漆木の植林を奨励し、村々に漆畑が起されて年貢免除の恩恵が与えられたことは、第五節植林の項で述べたとおりである。これより先、延享四年(一七四七)藩は、村々の山林失業者の困窮を救済する助成のため、村を巡村してその村に適した殖産物の紙木・桑を植えることを奨励したが、木曽谷筋に紙木は見えず、その後植広め助成になっているか調査して、その計画の意見良否を木曽材木奉行所に申達するよう申し渡した。「これは江戸(尾張藩江戸屋敷)より申し来り候に付申談候」と付け加えている。