山口村の紙漉は、年により多少の盛衰はあったが、江戸時代を通じて生産していたようである。紙草は作るが自家で紙漉はせず、紙草の皮をむき干し上げて原料にて売る者、その年の紙草の値段が高値の時は紙草を売り、安値のときには買い足して漉く者もあり一定はしていなかった。隣村の坂下村も紙漉は盛んであったので、原料や製品の融通をしていたようである。
山口村の紙漉屋は、享保九年(一七二四)には二〇人程あり四、五百束漉とあるが、宝暦六年松平君山に提出した書上げには一八軒、同八年には一五人などと増減があり一定していない。尾張藩領内の紙の生産地は美濃領上有知村であり、原料の楮は他村から多量に買集めていた。藩では楮は上有知村に売るように奨励していたから、値段のよいときには上有知村に売っていたとみられる。
外垣庄屋用留帳から紙漉に関係のある記事を拾ってみると次のようなものがある。
(表)
右の記事の様子からみると、紙の需要先は福島役所が主で、役所の入用分だけは毎年漉、そのほかはその年の紙草の値段が高い時は、原料の紙草で売ることもあった。江戸時代を通じて山口村の産物の一位を占めていた。