蚕飼

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山口村で蚕を飼い初めたのはいつころからか、それを知る文書がないので定かなことはわからないが、享保九年(一七二四)の検地の際、検地奉行に提出した村況報書(楯庄屋用留帳)のうちに「当村ニ蚕の儀、作時(田植)ニ候故、少々ならでは飼い申さず候、糸など取り申す儀御座なく候」と、書上げている。この様子からみると、享保年代には蚕飼をしていたが、田植の時期と一緒になるので少々しか飼っていないとしている。(二)の農事暦の項で前述した農事日記にも田植の始めに「蚕棚こしらへ」の記事が毎年みられる。そして糸など取ることはしないとあるから、自家用の真綿を作り、その余りの繭は中津川村の近江屋などに売っていた。また享保年代と推定の木曽の産物の書上げに福島村は「絹糸とあり村々から繭を買い集める」と付記してある。原村の産物は蚕種とある。この記事をみると、享保年代に北部の村ではある程度蚕飼いをしていたことがわかる。
 享保九年から藩は、徹底した林政改革に着手し、育成林業達成のために藩の御用木以外一切の伐木規制をした。
このため村々の林業従事者は失業し、村々は困窮に陥った。藩は谷中村の救済のため延享四年(一七四七)村々を巡回して調査の結果、漆木の植林をすることを義務付け、漆畑の年貢を免除して奨励した。漆は谷中の需要に当て他国に売却することを禁止した。木曽南部の湯舟沢村・田立村・山口村は紙漉をしているから、それ以外の村々に紙木を植え広めるよう奨励すると共に、蚕飼いが木曽に適しているから、桑木を植えることも奨励した。木曽には甲州桑という野性の山桑があって古くから少しずつ蚕飼をしていたが、日光桑・飛驒桑・城下桑等の苗木を配布して植栽したところ、従来の自生の甲州桑より良質で地味にも適していた。これによって村々では蚕飼をするようになり北部の村では盛んになっていった。宝暦八年一一月山村役所は、当年蚕飼取揚までに、どこの種売から購入したか、また木曽内の請売をした者へ幾ら代金を支払いしたか、調査して書付を以って報告するよう次のように申し渡している。
 右の調査に対して蚕種は松崎種(群馬県)と越中種(富山県八尾)で、一三枚購入している。この調査について次のように報告をしているが、松崎種と越中種の価格は、松崎が四倍程高値のようにみえる。
     覚
 一蚕飼種   拾三枚
   内
    弐枚  松崎種 但し壱枚ニ付壱分より壱分弐、三百文迄
    此代金弐分弐百文
    拾壱枚 越中種 但し壱枚ニ付三百文より弐百文迄
    此代銭三貫九百拾六文
 右の通当寅蚕飼取揚候迄に越中種并上州種相調相払候代金銭吟味書上相違ご座なく候以上
    (宝暦八年)
    寅十二月                           山口村庄屋両人
      御奉行所                           組頭四人
 
『県史史料編巻六木曽』に「宝暦九年六月木曽産物留書」(木曽山雑話全、徳川林政史研究所蔵)が所収されている。そのうちに「一蚕飼・糸・綿寛延年中(一七四八~五〇)桑苗等植付させ候儀、追々仰談され候、宝暦の初(一七五一~)より蚕飼の致方一統に致し覚へ、当時村々第一の助成に相成候由」とある。享保年代の林政改革推進のため徹底した伐木規制実施により、山林関係事業がなくなり失業者が出て村々は困窮した。藩はこれを救済するため、延享四年(一七四四)谷中村々を巡村視察して、湯舟沢村・田立村・山口村が行っていた紙漉の原料の紙木の植広め、村々で少しずつ飼育していた蚕飼が谷中村に適していると判断し、翌寛延二年紙木・桑苗の増殖を奨励した。米作の出来ない北部の村々では、桑苗を植広めて二、三年後の宝暦年代に入ると徐々に成果を挙げ、同九年ころには、村第一の助成になっていると記し、繭・糸を木曽の産物として掲げている。
 また『外垣庄屋用留帳』宝暦一〇年五月一八日付福島役所の回状に、同九年に村々に配布された蚕種代金取集の次の一文がある。
      覚
 一蚕上種 壱枚ニ付 代銀九匁五分
 一同中種 〃    同 七匁五合
 一同下種 〃    同 四匁八分
 一同下々種 〃   同 弐匁
 右は去卯年(宝暦九)村々え相渡候蚕種代に候、尤飼方に依り候哉、上種・下種の差別なく出来、不出来もこれある哉に言い、代銀は概をもって取立候共、村方吟味次第に致すべく候
 一其仕合候依り殊の外不出来なる事もこれある由に相聞候、かようなるものこれあり候は、その種代は惣村え割合懸候ては難儀これなく様致すべく候、右の積をもって代銀当六月中に野九郎次(註)方え指出すべく候
 一来年より種望候者、これあり候はは庄屋方にて壱人立、当月廿五日迄に右九郎次方え云付続試べく候
 右の通り相心得村中端々迄残らずよう、人別に申渡べく候、代銀の儀は吟味次第取立申べく候
     (宝暦一〇)
     辰五月十八日                        千村喜右衛門
                                    川村丈右衛門
 (註)野九郎次=岩郷村児野九郎次、蚕種の一手取次を命じられた。
 右通達の趣旨は、蚕種は上・中・下・下々の四等級になっているが、繭の収穫量は上種・下種の差別に関係なく出来、飼い方により上出来・不出来となるものである。それだから蚕種の等級別の代金をもってその枚数分を、そのまま村へ割付けては、右の出来・不出来の事情があって村が難儀するから、村方で蚕種の等級ごとの収量高を調査してその平均値を算定して取り立てるよう、村方の出来方調査次第にしたらよいとしその上で六月中に児野九郎次方に差出すようにせよと申し渡している。本年の出来方を見て来年の種を希望する者があれば、庄屋方で世話役を決めて二五日までに申し込み、来年も続いて試し飼いをするようにせよと申し渡している。因みに上種一枚代銀九匁五分は、当時の役所の日雇賃金が一日銀八分であったから、これに比べると一二日半工の賃銀に相当する。
 上州(群馬県)松崎の蚕種は、越中(富山県)八尾の蚕種の約四倍で高額であった。当時の飼育技術は幼稚で病菌の消毒や温度調節などの飼育方法が未知であったから全滅や不作があった。前掲の通達文中にも、「来年より種希望者があったならば、右九郎次方へ云い付、続いて試すべく候」と達して、飼育奨励をしているが、技術的に不馴れであるから引き続いて飼試を続けるように達している。このような藩の積極的な奨励によって谷中の村々では、少々ずつの飼育をするようになって、普及が浸透し始めた様子がみえる。木曽の北部の村では桑苗、南の村では紙木の植広めもしたが、山口村・馬籠村でも福島役所の配布する日光桑・飛驒桑・城下桑等の植栽をするようになり、宝暦一〇年代になると蚕飼を試飼いするようになり普及が一般的に浸透し始めたように見受けられる。宝暦一一年六月一〇日付福島役所から蚕種の取次の通達が出ている。掲げると次のとおりである。
 回状をもって申し入候、来年分蚕種の儀望の者これあり候はは、上・中・下何枚と書付を以て申達すべく候、望これなく村は申達に及ばす候、就は十五日迄に書付差し出すべく候、去年は種数余計の望もこれなく候に付、当年の儀去年より減り候ては、造用等懸り多く候得ば調方相止させ申すべく候間、兼ねてその心得これあるべく候一去年村々へ相渡候種、当年の出来方とくと志らべ追ってその段申達すべく候
     (宝暦十一年)
     巳六月十日
 右の通達によると「去年は種の申し込みは少なかった。本年の種申し込みが去年より少ないようであると、取り寄せ費用が相当に掛り、種が高いものになるから、取り寄せは止めることにする。このようなわけであるから、希望者が多く申し込むことを期待する。去年の蚕種の収量高を調査して申達すること」と命じている。
 右の通達による村々の収量高の報告は、王滝村の書上げのほかはわからない。『県史史料編巻六木曽』に所収されているから掲げると次のとおりである。文中には蚕種一枚ごとの収量のみで、特記事項がみえないから、普通の出来ばえであったように思われる。なお「蚕種上三枚」と記してあるから、上州種であったと思われる。
 一蚕種上三枚(付箋宝暦一〇年辰年御渡下され候)
  内
  壱枚 此のまい(繭)弐斗程   四半紙 此のまい弐升程
  壱枚 此のまい壱斗五升程   四半紙 此のまい壱升五合程
  半紙 此のまい六升程     右の通り当年出来方吟味仕候処、此の如くに御座候
                 (宝暦十一年)
                 巳六月        王滝村(徳川林政史研究所蔵)
 
 右の王滝村の産繭の調査は、延享二年桑苗の植方奨励以来一五年を経た宝暦一一年初めてみる蚕種紙の収量であるが、藩では各山地の蚕種から取れる収量を毎年調査し、よりよい木曽谷に適した種を探索し収量高を調査してより収量の向上に努力を注いでいる様子がみえる。蚕種の探索が三八年後の天明三年(一七八三)には、奥州(宮城県)の松島種、同州信夫郡岡部村に児野九郎次の手代を派遣している。宝暦一一年の蚕種の申し込み文書では、希望者が少ない場合は、経費がかさみ取り寄せが出来ないと申し渡しているが、奥州まで手代を派遣して取り寄るようになったということは、谷中の村々の蚕飼の軒数が普及して一応の軌道に乗ってきたとみられる。天明三年福島役所の回状を掲げると次のとおりである。
 先達て相尋員数申達候蚕種の儀、児野九郎次手代奥州え差遣、蚕種相調村々より先達て申達候員数相渡筈候間、その心得これあり九郎次手代の者、相回り候節望の者名前書付にいたし、手代の者え相渡し、人別え渡方は右手の者より直に相渡し候筈に候、兼てその心得これあるべく候、此回状披見の上、村名下に庄屋印判押順達、納所の村より差戻者也
   (天明三年)
   卯六月十三日                          福島役所川村八郎右エ門
 宝暦年代より桑苗の選択、蚕種の良種を求めて奥州にまで行き、蚕飼が努力改良されていった。江戸時代の養蚕業に関する纏まった記録は残されていないので、その内容や推移を明らかにすることは出来ないが、蚕飼が奨励されるようになった宝暦年代より約四〇年後の寛政年代(一七八九~一八〇〇)と天保年代(一八三〇~四三)の記録が断片的ではあるが、『外垣庄屋用留帳』にあるから蚕飼の推移を知るために参考までに掲げると次のとおりである。
(表)
 右の記事で「九年六月三日今日より蚕やとい」がある。江戸時代の蚕飼の時期はいつも六月の始一度だけが記録されているから、春蚕一回だけであったように見える。中津川村近江屋から毎年蛹買いに来村しており、寛政一一年には加子母村から糸引女性がきているから、自家製糸で糸を引くまでに蚕飼いが発展してきていることがわかる。
 右の寛政年代より約四〇年後の天保一〇年五月福島役所から村方の繭売り払い差留の通知が出たが、山口村では繭を既に中津川村に売払ってしまっていた。これについて次のように回答をしている。
        覚
 一今般村方繭売払候儀御指止仰せ付られ候処、山口村の儀は当月中旬ころ追て出来仕り、十五、六日ころ迄に中津川辺え皆々売り払い申候に付、其段御達申上候以上
      天保十年亥五月                     山口村庄屋
       福島御役人衆中
 右の差留の理由ははっきりしない。福島の糸引所で谷中の繭を集荷して扱う予定であったと推量されるが、山口村は中津川村が近くこれまでの取り引きの慣例から、中津川に売り払っていたのではないかと思われる。繭は出来上ると直に蛹の熱処理の必要上、放置しておけないから直ちに売り払ったと思われる。
 天保一〇年六月一〇日福島役所勘定所から、諸国から入ってくる蚕種について当年から五ケ年の間、種一枚に付銀一枚の保証金を取るようにし勘定所において非常の備に積立ておくと、次の触を達している。
 
 尚々取集銀追って御勘定所へ御差出成さるべく候、宿村下々御調印の上回文早速御継送り追って御戻下さるべく候、
 急回文を以って啓上致候、然ば奥州・上田・越中・松本・伊奈その外諸所より持参、并びに其の地に出来の替種売買の儀に付、当年より五か年の間原種壱枚に付、銀壱匁つつ宿村庄屋元において種商人より受取り、非常要害の為、御勘定所へ積置候様仰せ出され候間、此段御承知成るべく候、尤も種紙裏、役元印判押し売渡なし候筈、小前の者へも役人印判これなく蚕種買受申し間敷候様申し付置、間違これなく様御取扱成るべく候、右は宿村御呼出の上、仰せ付らるべく筈に御座候処、時節指懸り候事故、私共申し御引合申遣候様御沙汰に付斯如に御座候、
    (天保一〇)
    六月十日                    西尾治郎左衛門印
                            古瀬助左衛門 印
 天保一〇年六月には急回状をもって「就は蛹糸の儀に付、左の通り仰せ出され候間急度御取調の上、刻付書付を勘定所私共方へ御申越なるべく候」と次のように申し渡している。「谷中糸の儀は最早出来上っていると思われるから、先達申談いたしておいた様に、生産者ごとに繭・糸・蛹の収量を調べ上げて書付をもって申達すること、但蛹を他所に売る希望の村は蛹手形を、申達文書と同時に提出して許可を受けること」としている。そして同月二五日付にて糸を他所に売ることついても「糸他所出しの義は国方に応じ御切手御差出しこれある筈に候間、その段御申越成るべく候、御切手相願差遣し申すべく候」と達し、蛹・糸とも役所の管理下に置いてすべて、蛹手形・糸切手のないものは他所に売ることができなかった。