毛付馬

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馬は中世木曽氏の時代から領主の領有するところで、毛付馬の制度があり物成が徴せられていたことが、天正一二年木曽義昌が黒沢村にあてた文書に「こうめう(功名)候はば、けづけ并ねんぐゆるすべき事」とある。また慶長一二年五月家康の蔵入地時代、岩郷村・上松村にあてた「毎年相勤べく条々の事」と標題の年貢課役の定書(県史史料編巻六)に、岩郷村には「六石は毛付馬物成」、上松村に「七石は毛付馬物成」とあり、馬の頭数に応じて徴収されている。谷中二八ケ村の贄川・奈良井・福島・須原・三留野・妻籠・馬籠・山口・湯舟沢村の九ケ村には毛付馬物成はない。
 木曽代官山村氏に毛付馬領有が与えられたいきさつが、『木曽考続貂』にある。
 一木曽谷中の御巣鷹、出生の馬両様の内、一方下され候旨権現様上意に付、馬下され置候様願奉りの旨仰せ上げられ候処、馬の儀下され置候由、右の儀御取次の方より御書付等出候儀にてはこれなく、御口上候由、何年誰殿上意の旨申し聞され候との儀、御留もこれあるべく儀存じ奉り候処、正保二酉年御屋敷火災の節御焼失と相見え候、留もこれなく候、然れども御巣鷹は公儀え御上げ其後尾州え御上げなされ候、馬の儀は御改、急馬は御取上成され候儀、当節迄の姿に御座候、(木曽古事談)
 右の文書にみるように山村氏が木曽代官になって間もなく、木曽の馬は家康から与えられた。元和元年八月木曽が尾張藩主徳川義直に加増され、山村氏は尾張藩傭となったが木曽代官は従前どおり勤め、馬は山村氏の自由であった。ところがその後尾張藩では木曽馬を山村氏から取り上げるもくろみが生じていたようである。その様子が『木曽考続貂』に次の様に述べられている。
 寛文六午年五月三日、建中寺ニて源敬様御法事の時分、良豊公え成瀬主計殿申され候は、木曽にて毎年御取成され候毛附駒弐百御座候哉、三百御座候哉、其外を残らずなごやえ召寄され、其内能馬は殿様御馬に致し残りの分は御家中馬好なる衆へ買為し候はは、只今御自分より百姓え遣され候代金の壱倍も弐倍も百姓に取りなし候はは百姓も悦申すべくと存候、いかかこれある哉、然共御自分御迷惑成され候儀か、又は百姓痛の儀も候はは格別にて候と申され候え、松井市正殿参られ候に付、良豊公御挨拶にも、とかく其儀は市正と相談いたし、重て申上べくと仰され候得は、御尤に候と主計殿へ申候由、御屋敷へ御帰後市正殿へ切紙遣候、山村新左衛門御使に参候付、御口上にも其趣仰せ遣され候、
  手紙を以って啓上候、然ば昨日建中寺にて成瀬主計殿御咄なされ候木曽駒の儀、即刻御断申度候得共、いずれ御入候故、貴様迄重ねて申達すべく旨挨拶仕置候、夫に就いて木曽の儀は、先年石川備前支配以後、私祖父道祐え御代官仰せ付られ、則山川材木等万事の儀備前仕候ごとく申付候様にと御朱印頂戴仕候、毛附駒の儀も、先例に任せ、私祖先より親・兄・拙者迄四代右の通に御座候、毛附の儀年に寄り拾五疋・廿疋も百姓手前より買取、則代金くれ申候事に候、勿論悪馬の分は直に百姓え返候故、馬主心次第相払候者も御座候、又は手前耕作の為持候者も御座候、右の趣然るべく様に主計殿えも御申伝下さるべく候、委細の儀は此者口上に申含遣候
      五月四日                         山村甚兵衛
       松井市正様
 右の通、仰せ遣され候得共、石河蔵之丞と内談を遂げ、然るべく様申すべくとの御挨拶にて、則年寄衆えも申達候得共、承届候間其分に成され候様にと、五月九日市正殿御屋敷へ御出、申聞され相済申候、(松井手記本)
 前年の寛文五年には、木曽代官拝命以来家康から任せられていた山・川の支配は、山村家から藩直轄となり、山村家は地方支配のみとなった。そして同六年には右にみてきたように、家康上意による毛付馬の領有を藩に取り上げようとする成瀬主計ら重役の策謀があり、その内意を聞かされた山村良豊は、権現様上意によりこれまで四代に亘って領有してきたものであると主張し、松井市正を仲立にして石河内蔵丞らの理解を得、一件は落着をみた。
 以来山村家は毛付馬の取締規則を厳重にして毛付馬村に触出し、毎年八、九月ころ関所番両人に毛付村を回村させて「毛付馬取締触」の請書を徴した。この規則・請書を徴するようになった年代ははっきりしないが、『県史史料編巻六』に享保一四年の岩郷村の請書がある。取締触の案文(木曽考続貂より)を掲げると次のとおりである。
 一当村御毛附駒御帳面ニ相記候通、何拾何疋之外村中ニ壱疋も当歳無御座候、若隠置、後日ニ相知候ハヽ、何分之越度ニも可被仰付候、勿論何方江も一切売払申間敷候御事
 一今日御改之後ニおはな子(註)出来申候ハヽ、早速御注進申上、御帳面ニ相記可申候御事
 一前々被仰付候通、駒出来申候ハヽ、母馬之毛色共ニ御帳面ニ相記候得共、能当歳なとハ、若御百姓手前ニ而同毛之駒と引替候儀も可有御座候間、弥入念左様成儀、吟味仕旨被仰付、奉畏候事
 一病馬あやまち馬有之候ハヽ、御注進申上、御見分を請、死馬御目にかけ、其後埋候様ニと堅被仰付、奉畏候御事
 一御毛附之歳ニ罷成、福島へ引出不申内ハ、内証ニ而売払之儀、従持主預置候共、堅仕間敷旨被仰付、奉畏候御事
 右之通相違無御座候、若相背候ハヽ、御吟味之上当人ハ不及申、庄屋・組頭迄何分之越度ニも可被仰付候、為其一札差上申候所、如件、
一毛附村々左之通
  荻曽・藪原在郷、菅、宮越、原野、上田、福島、黒川、末川、西野、黒沢、王滝、三尾、岩郷、上松
 
 右の一五村が毛付村の指定を受けた村で、毎年五月に当歳駒の毛色・馬屋元の名を記載した「当歳駒改覚帳」という台帳を作成、福島役所へ提出させた。役所から「印札」という登録証が下付された。九月ころ役所から「毛付改奉行」が巡村し、一定の場所へ当歳駒と二歳駒を集めて寸尺を改め飼育状況を見分した。そして前掲の「毛付駒取締請書」を提出させた。
 おはな子の出生や、病死・事故死の出た場合は、届出が義務付られており斃死した場合は役所の見分を受けた後でないと埋葬することは出来なかった。
 (註)おはな子…馬の種付けは毎年春から初夏にかけて行われたが、放牧中に自然交尾の結果懐胎し、馬の妊娠期間の一一か月を経て次の年の検査終了後になって生まれる仔馬のこと。
 須原村以南の村は指定外の地域で「毛外(けはず)れ」と称した。農家には厩肥がなくては、田畑作がなり立たないから一軒に一匹は飼育し、規模の大きい百姓家では二~三匹の馬を持つ者もあり馬小作に出している者もおり、子馬を生ませていた。享保九年検地時の書上げでは八六軒で、馬は一〇〇匹となっている。天保一二年には一七六軒で一六七匹となっているが、小作の家が五八軒と多いので、軒数より九匹少なくなっている。外垣庄屋の寛政年代の用留帳に馬の記事が散見されるが個人的なもので村全体に関係のある事柄はみられない。
(表)
 江戸期の終りになってくると毛外れの村も産馬が盛んになって毛付改めが行われるようになった。三岳村誌に天保二年五月付の長野村の毛付申達が掲げられている。これには〆拾匹の馬の書上げがあり「右之通り当村中吟味仕候、乍恐右之馬江御印札被下置候様奉願上候」と、「印札」の下付を申達している。