(表)
右は当村出生の女馬に相違御座なく候処、本人共持馬に仕り度、存寄り御座候得共、俄に売払い申候、御達向暫手後(おくれ)に相成候、此段何卒御用捨下され置、御聞済の程願上奉り候
安政四年巳五月 山口村庄屋両人
三輪斧右ヱ門様 組頭四人
安政六年五月、福島役所は毛付馬市場で売却をした馬の調査報告を命じている。山口村は女馬弐歳一〇匹、母馬六匹の計一六匹を書上げ申達をしている。
(表)
右の通り当年福島御毛附場所へ当村出生の馬、売払い候分、今般御調に付取調此段御達申上奉り候以上
安政六年未五月 山口村庄屋両人
三宅半蔵殿 組頭三人
安政2年毛付届書(山口村)
安政六年からこの後は福島毛付場へ雌馬二歳および雌親馬の売払いを出している。安政六年には右の一六匹のほかに雌二歳馬九匹雄当歳馬一匹雌親馬六匹計一六匹、「右馬の儀は未だ売払い申さず候得共、いずれ福島御毛付までには売り払い申渡候間、若売払い候節は、追って『御印札』御願い申し上げ候間、右の段御達申置候」と、山村役所三宅半蔵あてに申達書を提出している。このころになると毛外れの村でも畜産が盛んになり福島の毛付場に売りに出す村が増し木曽馬の名声が美濃路などに伝播してきて、売れ行きが旺盛になってきた様子がみえる。これに乗じて他国の馬を木曽馬と偽り売る者が現れた。これに対する取締りの触が出た様である。山口村では次の請書を提出している。
奉差上御請書之事
一今般谷中牝馬御改に付ては、追々他国より入馬取計候者有之、木曽馬にいたし紛れ売候間、以来厳しく御差留被仰付候趣奉畏候、依之村中吟味仕候様、右躰之者一切無御座候、若心得違之者有之、他国より預り自分持馬と偽り候儀、外より露顕候はゝ急度御糺被仰付候趣奉畏候、為後日御請書仍而如件
安政六年未五月 山口村庄屋両人
組頭四人
文久二年の毛付馬の売払い匹数は四五匹になっている。後に山口村は馬市場が立つ産馬王国となるが、幕末にその礎が出来ていた。