『山口村楯庄屋用留帳』に、尾張藩が木曽谷中の村々に、元文五年(一七四〇)七月七日三村道益、八木平内を派遣し、山野に自生する薬草の調査見分と、薬草の採集をした記録がある。
一元文五年七月七日尾州三村道益様木曽谷中へ薬草御見分として御出被遊、七日晩落合御泊にて八日朝湯舟沢村へ御入、夫より馬籠へ御越、夫より山口村へ御入御泊り九日朝田立村へ御越被遊候、当村にても先年福島へ差上申候産物之内にて色々御尋、御入用之品々奥筋より御帰り之節馬籠宿へ出し申候、山口庄屋・組頭馬籠境迄迎に罷出、送りにはきびう舟場迄罷越申候、右指上候草木類之書付別に有之候
このように記しているが、山口村から差上げた草木類の別紙書付は見当らないので、薬草の名はわからない。
木曽の産物薬種については侍醫三村道益の骨折りによることが大きい。道益は木曽福島の医家の人、京都大脇東洋に師事して医術を修めて帰郷した。そして木曽山中に自生する薬草の豊富であることに着目し、これを採集して薬種界に貢献しようと考えた。この時代は木曽山の木材資源が枯渇して享保の林制改革実施中にて伐木停止の時代で材木に代わる産業を求めて、漆木植林の奨励などして模索の時代でもあった。宝暦五年(一七五五)九月二六日、福島役所は、薬種の取り方、そのほか薬草の品種等について申し聞かせることがあるとして、宿は庄屋・問屋・年寄のうち一人、在郷は庄屋・組頭のうち一人、百姓のうちで薬草について心得のある者がいたら一人ずつ召連れて、二九日までのうち都合のよい日に出頭せよとして、薬草の採取を奨励し、その年採取する種類は「おち草」ほか二一種と、大阪値段の概要を示した。運賃そのほかの手数料を加えると、薬種田方一斤(約六〇〇グラム)に付銀三分程であった。そして薬種は七日に申し渡したとおり村外へ勝手に売り渡すことは厳禁するとしている。
宝暦六年二月各宿村に薬種取扱人を設置して生(なま)のまま買取り一手に製して岩郷村伊三郎に取扱いさせることにし取扱人の資金は役所より前借の便を与えた。薬種の取り扱いは岩郷庄屋九郎次が任命されていたが、庄屋の職にあって忙しかったから弟の伊三郎をして実務に当たらせたのである。木曽産の薬種は大阪方面に出荷していたが、木曽の村々で欲しい者があっても買う制度になっていなかったので、宝暦八年二月小売業者に福島町松屋藤兵衛を命じ、製法もするようにして、ほかより安く買えるように計らった。そして藤兵衛のほかに小売所を希望する者があれば吟味の上許可するから申し出よと触出している。