酒屋

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我が国で利潤を対象とした商品生産としての酒造業が始まるのは一三、一四世紀からといわれている。その中心は京都・奈良、それに幕府のある鎌倉などであった。建長四年(一二五二)鎌倉幕府は、飢饉に際し売買する酒の製造を禁止し、鎌倉中の民家の酒壷を調査したところ全部で三万七二七四個あったという。幕府はこのような広汎な酒造業に対し一軒に酒壷一個を残して、他の酒壷を全部破壊した。一四世紀荘園が武家によって侵蝕されつつあった公郷は、荘園年貢に有力資源を酒屋に求め、酒屋税は酒屋一軒ずつの均等課税のほかに、酒壷という酒の容器に従って醸造石高別に課税された。そして明徳四年(一三九二)には酒屋・土倉に対する課税規定が明文化された。室町幕府は社寺本所がその支配下の酒屋・土倉に独占的に課税する権利を否定して、幕府の徴税権に服すべきことを規定した。そして室町時代における酒造業の全国的な躍進の基礎が固められた。応永三二(一四二五)・三三年に調査した北野社の洛中・洛外の「酒屋名簿」には、合計三四七軒の造り酒屋が登録され、その大半が土倉を兼営していた。そして酒造技術の点からは中世の僧坊酒のなかで、これまでの濁酒にかわって諸白(もろはく)造りが開発され、近世清酒醸造技術の原型がほぼ一六世紀末には出来上がっていた。
 近世酒造業は幕藩体制の成立の当初から領主によって厳重な統制をうけた。それは石高制のもとで酒造業が、幕藩領主経済の存続を左右する米穀の加工業者であったことによる。さらに米の流通事情が直接領主財政に大きな影響力をもっていたからである。したがって米価調節の点からみて、幕藩領主の側で米価の安定を計ることが重要な経済政策の目標であった。この酒造業掌握の手段としてとられたのが酒造株(酒株)の制度である。これが制定されたのは、万治三年(一六六〇)の酒造制限令であり、その内容は明暦三年(一六五七)の酒造米高を基準としたものであった。酒造株は各酒造家の造石高(酒造米高)を株高として表示し、駒形をした木の鑑札に、株高および酒造営業人の住所、氏名を明記して各自に交付したものである。この酒造株札の所有者にのみ酒造営業権を公認し無株の者は、営業が許されなかった。また酒造株に表記された株高を超えて酒造することは厳禁されていた。全国的に米不作の時は、株高の半分造というように、幕府より酒造制限令が全国的に出されている。万治元年(一六五八)一二月『御触留集成』(岩波書店刊)の制限令には、「去年当年在々所々耕作損亡の所これある也、その上材木山出るに付て、米金費の間酒造の儀、江戸、京都、大阪、奈良、堺そのほか名酒の所々、または諸国在々所々至るまで例年の半分当年・来年はこれを造るべく、ならびに新現の酒屋一切これを停止せしむべく―」とし、酒株高の二分の一酒造に制限した。この制限は株高を基準に酒造高が制限されたが、制限のない勝手造のときは自由に増減して酒造が出来た。制限令のない勝手造りが長く続いたあと、制限令が発令されると株高によって制限されるので、勝手造りの酒造高の場合との懸隔が生ずる。こうした懸隔を調整して旧株高を改めて現実の酒造高をもって、新たな株高に公認されたのが「株改め」である。
 寛文七年(一六六七)に第一次株改めが行われ、延宝八年(一六八〇)に第二次株改めがされ、次いで元禄一五年(一七〇二)に第三次株改めが行われた。この株改め高は元禄一〇年の酒造米高を基準とするもので、このとき確認された株高を特に「元禄調高」と称し、近世前期の酒造業が全国的な規模で幕府によって掌握さたという意味で重要である。その醸戸数二万七、二五一戸、醸造米高九〇万九、三二七石であった。
 その後享保末年の米価下落や地主側の進展によって、それまでの農村酒造禁止策が緩和され、これを転機として幕府の酒造対策は大きく転換して、農村へ酒造株が拡散し在(ざい)方酒造業は地主層によって近世後期にかけて発展していった。この地方の酒造家も例に洩れず、地主が掟米をもって醸造した。酒造高は規定されているが、江戸中期以降は、米の豊凶の如何に左右され、その都度幕府から規定の「何分の一」というように統制された。そして醸造に用いる道具・容器類は許可量に相当する分だけが認められ、余分のものは封印されて村預けとされた。
 天明八年(一七八八)正月二六日幕府は、「近年米穀〆(しめ)売り、ならびに酒隠造り・増造り等の不埒これあるは、おのずから米値段に相響、庶民難儀に及ぶに付、下々の者右体の者え遺恨相含、多勢集り穀屋・酒屋そのほかの家居に狼籍いたし候類これあるに付」として、右の行為は厳禁すると触出している(御触書天保集成六〇二六号)。この政策は、松平定信が老中となり寛政の改革の第一着手ともいうべきもので、彼が一命をかけて米価の低落を祈願した時期であった。同年三月幕府は全国の酒造屋の「酒造米高、株高」の調査をした。
 
 諸国酒造之儀、只今迄造米候酒造米高並株高共に書付、御料は其所の奉行、私領は領主・地頭より御勘定所え早々差出、寺社領の分は寺社奉行え取集、これまた御勘定所え差し出すべく候、
 右の通り相触べく候                                (御触書 天保集成六一四二号)
 
 右の触書によって木曽の谷中の村々の酒屋の調書を出し、幕府からそれぞれの酒屋の「酒屋株、酒造米高」が認定されて、各自に手形が渡された。「天明八年木曽谷酒屋酒株調」(木曽福島村庄屋亀子孫太夫)の覚書が、『県史史料篇巻六』に所収されている。この酒株調によると酒屋数三九軒のうち、休株と休酒八株で、営業している酒屋は三九軒になっている。この調書には馬籠村八幡屋と山口村八重島平八の二軒が次のように記されている。
 
  酒造株石高六拾石
 一酒造米石高百拾四石三斗也
                            馬籠村
                             源十郎  (八幡屋 蜂谷源十郎)
  酒造株石高百拾五石
 一酒造米石高六拾石也
                            山口村
                             平八   (八重島 宮下平八)
 馬籠村八幡屋の酒屋の営業は、『八幡屋覚書』のなかに創業時の様子が次のように記録されている。
 一明和二(一七六五)酉二月三日酒蔵普請にかかり二月廿四日に立、廿八日棟上げいたし候、
  下川井水の水にて初めて酒作り出し申候、酒至極宜敷出来仕り、一升六十文にて安売り出し申候
  先年より馬籠に酒屋と存ず所無く今度拙者初めて取掛り申候、それ故案じ候へども御陰にて酒宜敷出来仕り悦(よろこび)申候、是迄馬籠に作り酒屋なく存候、
 右の覚書によると、明和二年(一七六五)の開業であることがわかる。
 次に右の山口村には平八が酒造米六〇石の酒屋となっている。これは現在の八重島宮下敬三宅である。ところがこの書上げの三年後には休業をしているようである。寛政三年(一七九一)休業している酒株を庄屋外垣三左衛門が譲り受けることになり福島役所の許可を受け一二月二四日、文金五両で酒株切手を買い酒屋を始めた。
 文化八年(一八一一)酒造り役銀が酒造高一石に付銀一分五厘宛上納することになった。この通達書には木曽谷中で三三軒の酒造家が書き上げられている。馬籠村、山口村の酒屋は次のとおりである。
 
 一酒造米高八十石         馬籠村  兵右衛門
 一同   百十石         馬籠村  源十郎
 一同   五十五石        山口村  三左衛門
 天明八年の酒株書上げには、八幡屋蜂谷源十郎一軒であったが、これには兵右衛門(大黒屋)がみえ馬籠は二軒になっている。山口村は同書上げには、平八(八重島)であったが、これには三左衛門になっている。三左衛門は外垣三左衛門で山口村の庄屋である。外垣庄屋要留帳寛政三年には、平八の子仁左衛門から酒株の譲渡を受けたこと、酒屋開業について酒蔵建立のことを始め細部にわたって記されている。
 嘉永元年(一八四八)三月、福島山村役所より木曽谷村の酒一升当りの売り値段が通達されている。
 
 回状を以て申し入れ候、谷中酒屋ども酒値段の儀に付、追々願の趣余儀無き儀に付ては、以来は去申年(天保一三年)定の振りを以って別紙値段書の通り売捌き方申し付候付いては、なおさら不都合これなく様取計いあるべく候、若相違において当人は尚更役人共まで急度糺申付候間其心得あるべく候、
(表)