荒町の横屋から湯舟沢に向かう一本の道がある。一時期中山道が湯舟沢に迂回していたときに開鑿された道である。『濃州徇行記』(寛政年間に樋口好古によって編纂)によれば、「湯古義に落合刎橋十七間 巾二間三尺 延享元子年道替 刎橋やみ 今の新道ニ小橋四ヶ所ニなれる」とある。
馬籠宿から十曲峠を経て落合宿に入る場合落合宿の入り口で落合川を渡るが、この橋は今「下桁橋」といっているが『中山道分間延絵図』では「落合川板橋」と書かれており、貝原益軒の『木曽路之記』では「釜が橋」と書き、その他落合宿の古文書中には「刎橋」「大橋」「落合大橋」などさまざまな名前で登場する。明治三年の落合村明細帳に「往還通字下桁橋」とあり、字下桁に橋があることを記している。これが現在の下桁橋の名前に定着している。以下本項では「大橋」と表現する。中山道宿村大概帳によれば橋の長さは一八間で、両端一一間は土橋、残り七間は板橋、巾二間とある。谷が深いため刎橋になっているが、出水が激しく水流が強いため、しばしば橋場が崩れ何回となく流失を繰り返し、そのつど通行に支障をきたすうえ、修復のために藩は多額の出費を余儀なくされていた。
この橋の修理は「濃州徇行記」では「大道方役所より修築せり」とあるので領主が行っており、古くは慶長一七年ごろ千村平右衛門尉良重、山村七郎右衛門吉安の両名に対して、大久保石見守長安から大橋が破損しているから費用は両名が折半で架け直すように申し入れがされている(『信濃史料』二一)。元和元年(一六一五)木曽は尾州義直の領するところとなるに及んでそれ以降は尾張藩の負担で行っていた。しかし文政年間から明治二年までは年間四〇両で落合村が請け負う形を執っている。明治二年(一八六九)には金百両に増額された(落合村明細帳)。この川はしばしば増水しそのつど橋に被害が出ており交通に支障をきたしていた。橋の架替え・修理などの記録で判明しているものを列挙すれば、慶長七年(一六〇二)架替え、万治三年(一六六〇)、延宝元年(一六七三)及び元文五年(一七四〇)に橋普請、などがある。
落合村では度重なる橋の流失に考えあぐんだ末、街道を湯舟沢経由に付け替えるよう山村家を通じて藩に願い出ることとした。計画は馬籠宿のあら町、横屋の地点で中山道から分かれて湯舟沢村の立岩に出て、熊洞を通って落合宿に通ずるというもので、これによって大橋は渡らなくなり橋の管理から免れるというものである。
この道路付け替えには尾張藩も積極的で、元文四年(一七三九)に作事方である水野伴左衛門が予定路線の現地調査に訪れてから、寛保元年(一七四一)に開通するまでわずか二年という異例の早さで工事を完成している。たまたま元文五年(一七四〇)七月二二日に暴風雨によって大橋がまたもや流失し、九月一一日から仮橋の架設にとりかかるが、こうしたことが付け替え工事の促進の引き金にもなったのである。
元文五年七月、尾張藩の国方御用人衆から木曽の山村甚兵衛に宛てて、「馬籠から落合村に至る街道を湯舟沢村経由とし、落合の刎橋を廃止すべく調査をしているが地元は異存ないか」と問い合わせがあった。
この年の八月になると中津川・落合両宿の問屋は尾張藩の奉行所で付け替え道路についての考えを聞かれ、このとき落合宿の問屋弥左衛門は、大要次のような五点の要望書を奉行所に提出している。
① 付け替えにより道程が約七町ほど延びるのでこの延長分の駄賃を増額してほしい。
② 新道内には橋が五箇所あるので、この橋の維持修理は尾張藩で行ってほしい。
③ 十曲峠の上にある医王寺は街道から外れるので何らかの財政援助をしてほしい。
④ 落合川が増水すると仮橋は通れぬようになるため、山口村川並役所の御用は新道を使わなければならぬ。よって遠回りになるので馬籠宿内で継ぎかえをし、馬籠宿から山口村へ届けてほしい。
⑤ 仮橋は地元へ払い下げてほしい。
この地元からの要望に対する藩の反応については、残念ながら記録が見当たらず明らかでない。
九月一七日江戸幕府の勘定方役人和田喜三郎らが見分にきて、一行はその夜は馬籠に泊まり、翌日は十曲峠を経て落合村の仮橋を渡って付け替え道路の予定地を見分し再び馬籠に泊まった。この見分の結果、幕府は道路の付け替えを認め、元文五年(一七四〇)一一月二日、作事方水野伴左衛門、吟味方高橋治部蔵に対して、馬籠村・落合村両宿の宿間距離が一里一六町二二間となる新道路の付け替え普請を命じた。
一一月一二日に至って高橋治部蔵は馬籠宿の村役人らを落合宿に呼び、「道は両宿の御救になるから工事を引き受けるように」と指示した後、上松に向かったが途中で病死した(木曽山村家留帳)。
新しい道路は寛保元年(一七四一)に完成というから、工事期間はわずか一年程を要しただけである。新道路の中には釜橋・熊洞・小みだれ・境の沢・留橋があり、このうち留橋と釜橋は既に村内道路として使われていた関係から、高欄付の橋である。
道路の付け替えにより湯舟沢村では馬籠・落合両宿に通じる交通が整い、荷駄の輸送が便利になった。
現在の村道五六号線(木曽線)と、ここからさらに延長して立岩地区で県道中津川―南木曽線に合流して落合地区に達する道がこのとき開設された道路(寛保の道路)の名残りである。