寛保元年(一七四一)に開通した中山道の迂回道路は以来三〇年間、中山道の一部としての役目を果たしてきたが、明和八年(一七七一)に十曲峠が改修され、中山道が再び落合橋を通るようになり、湯舟沢の迂回路はその役目を終えることになる。
即ち中山道が再び旧道に復した理由は、湯舟沢回りに開拓した前記の寛保の道は道筋が意外に悪く、そのうえ距離も一七町程延びて不便であったからである。このため明和八年(一七七一)から再び十曲峠越えの旧道路に戻ってしまうのであるが、十曲峠は従来から急坂のうえ、その名前のとおり「九十九折(つづらお)り」であった。当時この道を馬籠宿から落合宿に向かって行く場合、医王寺の横から左に折れて山の尾根の急斜面を落合川に出ていた。そのため中山道を再び十曲峠廻りに戻すためには、この九十九折りの急斜面の箇所を避け、なだらかに落合川に出られるように新しい道をつけることが必要であった。更にこの道路の改修に伴って、先に仮橋となって捨てられていた「大橋」は当然復旧しなければならない。この二つを改修することにより、馬籠―落合両宿を結ぶ中山道は再び十曲峠越えに復することになるので、明和六年(一七六九)九月、十曲峠の難所を迂回する道路の新設と大橋の架け替えを藩に願い出た。尾張藩では九月二二日に手代四ノ宮甚平を派遣し古道・新道の下検分をさせたが、このとき馬籠宿からは島崎吉左衛門、落合宿からは井口五左衛門が同行付き添った。
明和八年(一七七一)一月二八日、江戸から荻野伴左衛門・関根五郎市ら四名が到着、新道・古道を詳しく見分して行った。
明和八年三月二九日、尾州藩から四ノ宮甚平が再び現地を見分し、道路は地元の者に請け負わせて早速普請にかかり、橋は尾州藩の直営工事として行われ五月一七日に渡り初めが行われた。新しくできた橋は長さ八間・巾二間で、てすりがつけられた。
このようにして中山道のうち旅人を苦しめていた十曲峠越えの難所は解消されたものの、改修道路は迂回することにより四町二九間となり、改修前の三町二二間に対して一町七間長くなった。
前ページの図は、荒町から湯舟沢廻りとなった寛保の道路ならびに十曲峠の付け替えの記録図である。
寛保元年の新道と明和8年の十曲峠の付け替え図
(蜂谷保氏所蔵・蜂谷源十郎覚書より)