中山道六九宿のうち木曽谷には一一の宿場が置かれた。街道における宿駅の機能は既に豊臣時代に現れていたといわれるが、寛永一二年(一六三五)から始まった参勤交代の制度により、江戸と領国を定期的に往来する諸大名のために宿場は重要な役割を負うことになる。宿場は本来公儀の交通の機能を果たすために設けられたものであり、そこには公用人馬の継立などを担当する問屋、大名などの宿泊休憩にそなえる本陣・脇本陣・旅籠などが置かれ、さらにこれらの業務を担当する人々をもって構成されていた。また旅をする庶民の往来のためにこれらの人々を相手とする茶屋や店舗が発達し、宿場町は民衆の中に溶け込んだ旅行基地的な性格を帯びていた。
本来宿場町は、諸大名の通行が平時にあっても常に戦時体制のもとに行われていたことから、城下町に見られるような防御的な町つくりを基本にして成立していたことも特徴の一つであり、多くの場合宿駅の家並みは街道に沿って両側に長方形に並んだ街区で形成されている。