馬籠宿は尾張藩領で宿高は無し。江戸からの距離は八三里六町四七間といわれ、江戸板橋宿を一番目とすると四三番目の宿場になっていた。妻籠宿の境から落合宿の境までの宿往還の長さは四〇町四二間で、このうち宿内の町並みは東西に三町三三間続いている。街道は南北に貫通しており、この道幅は宿村大概帳によれば九尺となっている。この道路に平行するように、町裏には不整備ではあるが小道「裏道」があった。両側の家々は密接してたち並んでいたから、街道から裏道に出るためには「火屋」と呼ばれる路地と、寺に通ずるための「寺道」が利用された。
往還道が急な山の尾根に沿った急斜面を通っているので、石垣を築いては屋敷を造る「坂のある宿場」が特徴となっている。
馬籠宿の家数の移り変わりはつぎのようになっている。
(表)
次に馬籠宿に関する資料のうち、享保六年(一七二一)と天明七年(一七八七)の書上明細帳を掲載しておく。
享保六年 馬籠宿明細書上(馬籠・八幡屋書上帳)
覚
一、定納 四〇石 尾州御領 信州筑摩郡木曽馬籠
一、町長 弐丁拾間余
一、家数 五十七軒(但し町の分)
内 弐拾五軒 御伝馬役
参拾弐軒 水役
内 弐軒 問屋
四軒 年寄
壱軒 馬指
壱軒 定使
〆 五拾七軒
外ニ五疋御伝馬役 町付の在方より出る
一、馬籠宿 御江戸の方ノ町入口 丑ノ方
濃州より入口 未申ノ間ニ当る
一、馬籠より妻籠境迄 弐拾弐丁四十四間
境より妻籠迄壱里十三丁十六間
馬籠より妻籠宿丑寅ニ当る 又馬籠より峠まで拾九丁
一、馬籠より落合境まで 拾九丁八間
境より落合迄 二十一丁五十八間 境ハ一里塚より六間前也
馬籠より落合ハ申ノ方に当る 十石峠迄三十一丁四十間
一、木曽惣物成り
千六百八拾弐石五斗五合 高反畝と申儀無御座候
一、木曽御年貢木数
弐拾六万八千百五十八丁
一、馬籠宿川水
東より出、南の方湯船沢と申す本江川へ落合申候
一、馬籠中男女 五百人余
一、濃州境より信州本山境迄 弐拾弐里四拾壱間
一、問屋前より御高札場迄 壱町四十間
御高札 辰巳向き
東の方 親子、切支丹、毒薬
西の方 御朱印、駄賃、火付
一、当村氏神 壱社 諏訪大明神 みつやと申所 馬籠より南に当る
一、熊野権現 壱社 峠と申所ニ御座候、馬籠より北に当る
一、濃州恵那嶽 巳ノ方ニ当る 道のり四里余り、落合境より辰巳ニ当る 落合境より三里余り
一、苗木城主 遠山伊予守殿城下迄三里申酉ニ当る
一、馬籠宿の内 控の分小名家数
あら町 十三軒
みつや 六軒
横手 二軒
中のかや 五軒
岩田 一軒
峠 二十軒
一、尾州より御伝馬役人参拾疋に被下置候金子高
千七百壱両壱分余 元禄八年亥ノ年より当年まで一疋ニ三両宛被下置候
一、ご公儀様より御拝借人馬共に御金高百両
御米二百五十俵代として下され候 寛文九年酉ノ五月
元禄五年申ノ年より十四年巳ノ年まで壱ケ年に拾両ヅツ御返上仕候
一、延宝二年寅ノ三月御拝借八十七両弐分、同五巳ノ年より貞享三年寅迄壱ケ年ニ八両三分宛十ケ年ニ御返上
一、馬籠鉄砲 拾七丁
内 六丁 おどし筒
拾壱丁 猟師筒
一、贄川より馬籠迄寺庵数 〆三十八ケ寺
一、橋 峠橋四間、井戸沢橋二間、岩田橋三間、塩沢橋二間、下町入口橋二間、橋詰橋三間
一、旅人木銭 上御一人参拾五文、下御一人十七文、馬壱疋七十文
天明七年六月 馬籠宿明細書上(馬籠・八幡屋書上帳)
天明七未六月改覚
一 現米四拾石
但 草高と申ハ無之、右通上納仕候、
一 宿内家数八拾弐軒
外廿八軒、前後宿間所々ニ御座候、
一 村内人数七百六拾壱人
但 男三百八十九人
女三百七十弐人
一 町長三丁三拾三間
但 町並続家之内
一 御伝馬廿五疋
但 御伝馬役之者参拾人ニ而相勤申候、
一 歩行役廿五人
但 宿継在ニ而相勤申候
跡 是ハ大公儀斗ヘ之申上ニ候、
一 狩出之節弱人足廿八人
一 本陣・問屋・庄屋 壱人 但三役兼
但 庄屋給三石宛頂戴
一 年寄役 四人
一 問屋 壱人
但 問屋給一人江金子壱両弐分宛頂戴
一 問屋下役 帳付 弐人
馬指 壱人
人足指 弐人
二割取立 弐人
〆 七人
但 宿方ゟ給金遣申候
一 地子半分御免之分 本陣 両問屋
米壱斗壱升九合 両方ニ而
伊奈郡三十一ケ村ニ而
一 助郷高壱万三百十一石六斗
但 馬籠・妻籠・ミとの・野尻四ケ宿ヘ被仰付候、
御年貢米御差留、享保九辰年ゟ止ム、其後御切替ニ成ル
馬籠宿は宿場規模も小さく村人の生活は裕福なものではなかったようで、貝原益軒は『木曽路之記』で「馬籠より美濃国落合へ壱里、馬籠の民家廿七八軒許。わづかなるいやしき町なり」といっている。通ってきたいずれの宿場も旅人を相手とした商売で賑わい活気を呈していたのに反して、ほとんど店らしいものもない馬籠宿にわびしさを感じたのだろう。