〔本陣・脇本陣〕

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 本陣・脇本陣は共に公儀宿泊休憩のための施設として宿場には必ず設けなければならなかった。本陣の由来については、『南木曽町誌』は次のように記載している。
 
  大島延次郎がそれまでの研究を集大成し、さらに深化させ『本陣の研究』を著している。その著には本陣の語義・起源について次のように説明されている。まず語義については、『語梧随筆』の「本陣は本所というが如く、一駅に宿泊する従者、その主君の泊居をさして本陣といいしよりの名なり、陣とは陣列の義にて、人が集まり居るの意なり」という記述をあげて、その語義の由来とされ、その起源については、室町幕府二代将軍義詮が貞治二年(一三六三)に上洛する際に、その旅舎を本陣と称して、宿札を掲げたことに始まるという『駅逓志稿』の説をとっておられる。さらに本陣がその職能を真によく発揮するようになったのは寛永十二年(一六三五)の参勤交代の制度が実施されてからであって、本陣は参勤交代に伴って発達してきたものとされている。これに対し、丸山雍成はその著『近世宿駅の基礎的研究第一』において、その問題を指摘され、「室町、戦国時代の大名の宿陣である本陣が、その歴史的譜系において直ちに江戸時代の大名、貴人等の宿泊旅館に連続するか否かは、なお検討の余地があり」、として、大島の論拠である本陣の創設の事情を個別的に検討された上で、「本陣は江戸幕府による中央集権的封建体制の形成過程におけるその一環として宿駅制度のなかに本陣職として位置づけられ、設定された」ものであり、「東海道各宿本陣は、寛永以前は臨時的、私的性格が濃厚で、参勤交代制度が実施の寛永十二年以降本陣職として恒常的・公共的性格のものに転化したといえる」とされている。(『南木曽町誌』第二節から)
 本陣・脇本陣ともに高貴な人の宿泊に備え、広大な邸宅と多くの使用人を常に抱えていなければならず、このためかなりの財力を必要とした。多くは世襲制となり一種の家格ともなって藩の保護を受けていた。本陣だけでは受け入れ収容に支障があるので脇本陣を置いた。脇本陣は建物や規模などは本陣に準じており本陣同様世襲になっていた。
 本陣に休泊できるものは、勅使、院使、宮、門跡、公家、大名、旗本などで一般のものは原則として利用できなかった。本陣・脇本陣ともに貴賓客が使用する専用の部屋が設けられここを「上段の間」といい、他の部屋より床が五寸~七寸高く作られていた。また専用の風呂場と便所があり、これらの施設は家族といえども使用が禁じられていた。
 宿泊・休憩などの場合には差合い(利用者の鉢合わせ)を避けるため、利用者側はあらかじめ先触れをして必要な施設を確保したが、下検分と称して建物の調査をし破損部分の修理を命じた。相手の格式によっては便所の改築、畳替え、ふすま替え、風呂桶の新調が行われた。
 宿泊の場合は係の者が現地に乗り込んで宿割りをし、止宿の前日には「誰々が泊まる」旨の長さ四尺、巾一尺程度の関札(宿札)を本陣の門前や宿の入り口に掲げた。
 休泊者の到着・出立には、当主は「上下ニ而御送迎」とあるので、裃に威儀を正して送迎した。送迎場所は宿場の入り口であったり門口であったりで、客の身分で使い分けたようである。大名行列のように一度に多人数の宿泊があるときは、藩主や近習は本陣に、家老職などの上級者は脇本陣に泊まったが家臣は旅籠屋に泊まり、場合によっては一般の農家まで利用した。
 大名の宿泊では、ある程度の生活用具や食料などは持参し、料理人まで連れて旅をするのが本来の姿であった。したがって本陣・脇本陣などでは材料の提供をすればよかった。しかし時代とともに賄いを本陣側で行い旅籠代を支払う形式を採ることもあった。
 大名が本陣に宿泊したときの状況について、野尻宿本陣の正徳二年(一七一二)五月四日の記録を一例として収録しておく。
 松平民部大輔様御登御止泊 銀五枚と羽二重袷羽織一ツ御宿入りニ被下候 ○上げ物御菓子之外二色支度置候へ共跡々ゟ一種宛差上申候間一色ニ仕候様にとの事にて竹子五本上る御菓子肴は戻り候 ○旅籠宵三十四人、朝二十五人銘々払也 歴々の衆は不残下宿にて御支度被成候而本陣へ御詰被成候 ○夜のもの三十(ママ)斗も入申候 右の旅籠の衆に借し申候 旅籠極て役人料理の間入口ニ居申候殊外成こぎり様近年に見も聞もせぬ程ニ候事にて迷惑申候由一文二文ツツ増申一人ニ付き四十文ツツ也 ○御番所裏表二カ所入り申候 ○水風呂四ツ、内二ツ常の処、一ツ内庭、一ツ料理之間也 ○御行水之湯多く入り申候 ○御馬二疋入申候口取六人庭の部屋に居申候 米五升味噌一斗夕晩に焚候て遣申候 大根漬遣申候 此外ニ鍋借し申様ニと申候へ共借し不申候 ○屛風六枚折二双、二枚折二双 ○燭台七本、手燭四ツ ○煙草盆十四五 ○ごとく九ツ ○台所中戸の前、廣間の障子二本にてかこひ小使衆八人御入候(中略) ○駄荷八駄何れも江戸京大阪馬にて朝呼申候て迷惑申候(以下略)(木曽福島町史)
 宿場の機能の重要な部門を負担していたこの制度も明治三年一〇月、「宿場の本陣・脇本陣の名称を廃す」との布告によって廃止になった。