脇本陣

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脇本陣は蜂谷家。同家は土岐源氏・土岐光貞の三男蜂屋定親を祖とする。その後裔は豊臣秀吉に寵用されたが関ヶ原の合戦で敗れて四国丸亀に落ち、貞享の頃(一六八四~八七)馬籠に定住した。名字帯刀を許され馬籠宿の年寄役を兼ね、造り酒屋を家業としていた。
 最初の建築は宝暦三年(一七五三)で、位置は現在脇本陣史料館のある所である。建坪は凡そ六四坪だったというが、このころの間取り図が存在していないので細部は解らない。文久二年(一八六二)一〇月に改築され、間口は九間四尺、奥行き九間、建坪は約八七坪に広げられ、上段の間は書院付きの六畳となった。間取りは(第2図・A)のとおりである。
第2図 馬籠宿脇本陣間取り図
(文久二年総改築後の間取り)

A 母屋間取り

 この改築のとき上段の間の真下にあたる部分を下屋造りとし、ここに警護の物が詰める八畳の部屋が新たに設けられた(第2図・B)。この建物も明治二八年の馬籠の大火で類焼し、上段の間に続く坪庭だけが残っている。この坪庭を形づくっている玄武石垣は、当時「石一つ・米一俵」といわれ、江戸期文化の面影を伝えている。

B 上段の間の下の部屋


母屋木組み


脇本陣坪庭の玄武石垣