最初の建築は宝暦三年(一七五三)で、位置は現在脇本陣史料館のある所である。建坪は凡そ六四坪だったというが、このころの間取り図が存在していないので細部は解らない。文久二年(一八六二)一〇月に改築され、間口は九間四尺、奥行き九間、建坪は約八七坪に広げられ、上段の間は書院付きの六畳となった。間取りは(第2図・A)のとおりである。
第2図 馬籠宿脇本陣間取り図
(文久二年総改築後の間取り)
A 母屋間取り
この改築のとき上段の間の真下にあたる部分を下屋造りとし、ここに警護の物が詰める八畳の部屋が新たに設けられた(第2図・B)。この建物も明治二八年の馬籠の大火で類焼し、上段の間に続く坪庭だけが残っている。この坪庭を形づくっている玄武石垣は、当時「石一つ・米一俵」といわれ、江戸期文化の面影を伝えている。
B 上段の間の下の部屋
母屋木組み
脇本陣坪庭の玄武石垣