旅籠

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本陣・脇本陣が高貴な人々の宿泊に備えるものであれば、一般の旅人の利用する宿泊施設に旅籠屋・商人宿があり、さらに下級な施設に木賃宿や馬宿があった。
 旅籠は食事を提供してくれる宿屋であり、木賃宿は食事の提供はなく泊めるだけの宿である。もっとも江戸初期慶長の頃までは旅をするときは糒(ほしい)を持って歩き(一人一日二合五勺が標準)、宿につくと釜を借りて自分で湯を沸かして糒をもどす自炊宿泊が普通であった。糒というのは蒸した米を乾燥して腐敗しないようにした携帯食である。宿には湯を沸かすために用いた薪代、即ち木賃を払うところから木賃宿と呼んだ。慶長十九年(一六一四)一〇月の御觸書に、
 旅人駅家に投して駅家の芝薪を用ふれば其木賃三文を出し若し其を用ひされば出すことなかれ。(『駅逓志稿』)
とある。
 この觸書きは宿泊したら薪代として三文を払え、薪を使わなかったら代金は払うな、というもので、江戸初期のころは宿賃というものは認めていなかった。これでは人を泊める家もなくなるが、元和三年(一六一七)五月になって土井利勝、本多正純、酒井忠世、安藤重信の連署で東海道の代官に対して、「木賃は京銭四文、馬一匹八文とし、其の旅舎の薪芝を用いさるものは其半を減せしむ」という觸が出され、宿賃が認められるようになった。時代の進むにつれ食事付きのものができ、風呂や夜具なども提供される旅籠となり、その額も増額されてゆく。中山道では寛文五年(一六六五)に「主人十六文、馬銭十六文、僕隷六文ト為ス」と決められ、さらに天明七年(一七八六)になると「時価に従テ……」(『駅逓志稿』)という時代もあった。
 寛永十四年(一六三七)二月の宿賃御定書で、
 宿賃、薪代共壱人ニ付六文 馬は拾文つつたるへき事
  附人馬の駄賃宿賃以下御定の外まし銭取者有之は三十日籠舎たるへし、并其町之年寄為過料五貫文其外壱軒より百文つつ可出之事
とある。
 つまり定められた料金以外に増額して取った場合は三〇日の牢屋に入れるほか、町役人である年寄役から過料五貫文を取ったうえ、各家々から百文ずつ徴収する、というものである。
 正徳元年(一七一一)の高札では、
 主人壱人  三十五文
 召仕壱人  十七文
 馬一疋   三十五文
と増額されている。