時代とともに旅人の数も増え、旅人自身が食料を持ち歩く労を避けることから、宿泊先が賄い一切を行う旅籠屋が出現してくる。しかし木賃宿も利用者が多かったため、旅籠屋と木賃宿が混在するようになっていった。
大概帳によれば、馬籠宿の旅籠屋は一八軒で、このうち大旅籠六軒、中旅籠七軒、小旅籠五軒となっている。大・中・小の区分は旅籠の規模による階級である。
幕末になると旅籠代もかなり高額になっており、嘉永二年(一八四九)に加賀侯の一行が中山道を通ったときの記録では、
一、家中共人旅籠代左之通
弐百弐拾文 上旅籠一人分
弐百文 中旅籠一人分
百八拾文 下旅籠一人分
五百五拾文 乗馬壱疋
但弐貫目干草、壱升堅大豆、三升粉糠、干草無之処にては外に大豆弐升都合三升 尤煮立可相渡候。右之外裾湯寝藁用意の事
とあり、この場合は宿泊者が大名の供揃いであることから、料金は規定の額にこだわらなかったのかもしれない。