目明し

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岡っ引・手先・小者・御用聞などと呼称されている。この類は古くは平安時代の検非違使庁の「放免」がある。これは犯罪を犯した物が徒刑・流刑などの罪を免ぜられ、その代りに検非違使庁の下司(げす)となって使役され、悪人仲間の隠しごとを報告し、その代りに自分の罪を許して貰うというものである。戦国時代に賊を捕えるために密告者には同じ仲間でも罪を許したうえ褒美を与えるという方法をとった。目明しは「放免」の系統に属するという。犯罪者は同類である悪人たちがお互いの顔や姿を知っており、それらの動静にも詳しいところから役人達の耳目となって悪事の探索や容疑者の逮捕に協力し、その働きによって、自分の罪科と引換えにして貰うというものである。このようなやり方は江戸時代になっても改まらず、悪人仲間の顔利きを同心が個人的な牒者として利用し、悪人仲間の情報を聞き出し犯人逮捕に利用していた。目明しは奉行所に人数だけ届けてあるだけで名前は出していない。目明しには人を逮捕する権限はない。同心と一緒のときか、または「御手当の事」と書いた令状持参のときでなければ十手・捕縄は使えなかった。十手も与力・同心の持つものには朱房が付いているが、目明しにはなにも付いていない。目明しはあくまで同心の個人的な手下で、奉行所とはなんの関係もないから、従って身分上の公的なものはなにもないのである。
 同心についていて犯人検挙の実績をあげることが出来たり、手柄があれば、同心はそのまま放っておくわけにもいかない。江戸初期には年末に一分位の手当を、幕末ころには一、二両位を同心が個人的に出した。そして或る程度の信用が出来るようになれば、同心限りの手形(身分証明書)を出すこともあった。年額たった一両か二両の手当で、目明しをやるのもこの手形がほしいからである。永く目明しをやっていると自然と貫録がついて仲間から立てられて親分となる。そして子分の「下っ引」を持つようになる。そして親分は銭湯や小料理屋などを妻の名義でやらせて、その利益で子分の面倒をみていた。勿論子分は親分限りの者で、なんの権限もない。下っ引は職業を持つ者もあり無職の者もいるが、町々の底辺を歩きいろいろの情報を集めて来る。こうした情報が同心に集まり手柄になることが多かった。下っ引―岡っ引―同心と私的な諜(ちょう)報機関であったともいえる。
 江戸時代に入って「目明し」は、町奉行所・火付盗賊改所・大目付・目付などの捜査機関、私領でも同じように公然と利用していた。江戸中期ころになると目明しと名乗り町家にねだりごとをしたりする横行者が目立つようになった。将軍吉宗は享保元年(一七一六)から延享二年(一七四五)九月、その子家重に将軍職を譲るまで三〇年間政治改革に取り組み享保の改革を成し遂げた。実証的・官利的学問に関心は強烈で、史書・法律・制度に関心深く法律の本は自ら勉学したといわれる。この吉宗が法の権威のため、目明し廃止令を出した。『御触書寛保集成』(岩波刊)をみると、享保二年(一七一七)~同五年にかけて目明しに関する条文が出ている。同書「二八六三享保二年六月」の条を読下しにして掲げると次のようになる。
 一前々従り相触候通り、町方にて町奉行所組のもの或は家来様と偽り、物取いたし、或は目明し役人様と申し、ねたり事いたし候者今以ってこれある様に相聞候、三番所にハ目明し壱人もこれなく候、右の類の者これあり候はゝ、早速月番の番所え召し連候様に申し付置候得共、其儀無く、畢竟右の類これあり候ても、番所え訴候ては町内の者のさはぎに成候儀をいとい、内々にて事を消し、差置候と相見え、不届候、向後何者に依らず、右の似せ者は勿論の事、実の組の者并家来にても、ねたりかましき儀并右時に諸色借用いたし度由申すものこれあるに於は、早速召捕、月番の番所え訴出申べく候、若内々ニて事済、差置候族これあり、後日に相聞候ハハ、当人は申すに及ばず、家主・五人組・名主迄も急度吟味の上、曲事申付べく候、此段町中触知らすべく者也
 右の享保二年の触書には、「前々より相触れているとおり、町奉行所組の者とか、家来であるとか、目明し役人などと偽って、物取りをし、また目明し役人などといって、ねだりごとをする者があると聞くが、三か所の番所には目明しは一人もいないから、若し目明しなどといって来る者があれば、それは偽り者であるから、隠しておかないように月番の番所に必ず届けるように」と、目明しは一人もいないと申渡している。
 また同触書集「二八六五」享保四年六月の触書には、「火付盗賊博奕改方に目明しはいないのに、火付盗賊博奕改方の目明しであると称して町にあらわれて町家にねたりをする。右の者は捕えてお仕置にした。この後目明しと称して町に現れたならば捕えて町奉行所に申し出るようにせよ」と命じている。
 同触書集「二八六六」享保五年五月(一)には、「申渡」と題して次のように町中にくまなく知らすことを命じている。
 一似せ目明しの儀に付、町中え触書の趣、諸人末々迄承知仕候之様に、木札又は紙に成(なり)共相認、町中木戸或は往還に右札十日の内、只今より早々出し置申すべく事、
 一右之外向後も急度相触候事は、札に認め、出置申すべく事、
 一当時類焼場木戸これなき所は、仮(かり)番屋に張べく申し候、番屋もいまだこれなく所は、名主宅の表・ひさしにても、往還の者、よく見候所張申すべく事、
 一名主支配弐町より以上の分はその支配の内、往行人多の町計に壱ケ所張申すべく候、、然しながら数町隔り候支配所これあり、その辺に他町の札もこれなく所は、壱ケ所に限らず見合い札張り申すべく事、尤支配壱町の名主はその町に張申すべく候、
  触書認め候札板は厚き板にて、十日過ぎけずり以後迄用い候とも、藩板にて毎度仕直し候様にも、勝手次第仕べく候事、
 右にみてきたように享保二年から同五年に至る間、吉宗は法令に存在しない目明しの否定を令して排除せんとして触書をだしたが、現実にはなかなか排除の実現はむずかしかった。五五〇余年前から習慣となって続いてきたということは、諜報機関には「目明し」は情報機関として最も安易な、そしてなくてはならぬものに定着していたということである。吉宗は延享二年(一七四五)その子家重に将軍職を譲り隠居した。吉宗の目明し禁止令にもかかわらず、「目明し」は岡っ引と名称を替えて登場した。「岡っ引」は歯切れがよく、江戸っ子にぴったりの語感であったようだ。岡の意は、別の場所・局外を意味する。正規ではなく脇から引っ括(くくる)から岡っ引というといわれる。岡っ引は江戸・関東の呼称で、そのほかでは目明しという。