木曽谷中に目明しが配置されたのは宝暦七年(一七五七)三月である。谷中に目明しが配置された触書が回覧されている。
一筆啓上致候、然ハ先達而当宿与右衛門・仙助両人谷中目明頭役仰付られ候、右之外此度五人者下目明左之通り被仰付候
贄川宿 惣左衛門
上松宿 五右衛門
須原宿 円左衛門
三留野宿 茂助
馬籠宿 所左衛門
右之通被仰付候、尤用事ニて当宿両人江折々文通等遺し候、急成(なる)用事之節ハ宿継出し可被申候間無滞取扱候様ニ被仰付候、右之段初序我等ゟ申触置候様にと従御役所被仰付為其如此御座候、
宝暦七年(一七五七)三月、木曽の宿に目明し頭取与右衛門・仙助の二名と、下目明し五名が配置された事を福島問屋は「仰せ付けられ候に付」として各宿村に回状をもって通知をしている。そして下目明しの者は、福島宿にいる目明し頭取に常々情報連絡を取るようにし、急ぎの場合は宿継を出して遅れない用に処置をするよう仰せ付けられたと云っている。山口村外垣庄屋の要用留帳、馬籠宿年寄大脇兵右衛門の役儀扱覚帳の宝暦年度(一七五一~)以降の記事の中には、「あぶれ者」とか、「無宿者」「お尋(たず)ね者」などが松本・尾州方面から入り込む形跡がある、見知らぬ者が来て一夜の宿を申し込んでも決して泊めてはならない。こうした申し渡しが繰り返し回状でされるようになった。こうした世情に対して治安を守るため、木曽一一宿の問屋・年寄の願によって目明しが配置された。
宝暦七年七月十九日木曽目明し雑用歳暮谷中宿村割
覚
一金壱両 贄川村
一同弐分 贄川村在郷
一金壱両 奈良井宿
一同弐分 右村内平沢
一金壱両 藪原宿在郷共
一金弐分 宮越宿在郷共
一金壱両 福島宿
一銀五匁 右村内向町
一同拾弐匁 右村内上之段
一同拾弐匁 右村内八沢
一金弐分 上松宿在郷共
一同弐分 須原宿在郷共
一同弐分 野尻宿在郷共
一同弐分 三留野宿在郷共
一同弐分 妻籠宿在郷共
一同弐分 馬籠宿在郷共
一銀拾三匁 奈川村
一銀拾四匁 荻曽村
一同拾四匁 藪原在郷
一同拾三匁 菅村
一同拾四匁 原野村
一同拾四匁 上田村
一同拾四匁 黒川村
一同拾匁 西野村
一同拾三匁 三尾村
一同拾四匁 岩郷村
一金壱分 黒沢村
一同壱分 玉滝村
一金壱分銀七匁五分 荻原村
一同壱分銀三匁 長野村
一同壱分 殿村
一同壱分 与川村
一銀五分 柿其村
一金壱分 蘭村
一同壱分 湯舟沢村
一同弐分 山口村
一同壱分銀七匁五分 田立村
金拾両壱分ト銀百九拾五匁
合金拾三両弐分
右者当春木曽目明頭取両人・下目明五人被 仰付、為雑用御手当等被下置候儀ニ付、村々ゟ茂為歳暮之祝儀右之通り、福島目明方ヘ相送り可然義ニ候、村々下目明之者共江は、右目明ゟ配分致筈候、村々割合之差別不拘、往来繁多之宿村賊難等気遣敷所々勘考之趣ニ候、存寄等有之候村々之義ハ無指控其趣可申達候、村内取集方も商売躰身上柄ニ応シ吟味之上甲乙相立、御百姓不痛様ニ濃吟味致取立可申候、尤盛衰も可有之候へとも其年々之吟味可然候、
一目明共江賄賂之筋堅停止ニ申渡置候、於村々も其旨相心得、賄賂等を以邪成義不仕様ニ村中端々迄可申渡候、若相背候ニおいては御吟味之上急度曲事可被 仰付候
宝暦七年丑七月十九日
右之通り被仰付候、奉畏候
(島崎)
彦兵衛
(大脇)
兵右衛門
(東京都徳川林政史研究所蔵)
山口村外垣庄屋寛政九年(一七九七)の用留帳九月一七日の条に、三留野の目明し伝蔵が来て、山口村喜兵衛方に、無宿者孫四郎という者が来ていると聞いて来た。これは尾張藩太田代官所の「お尋ね者」(指名手配者)であるから、内々に相談申すことにするという。お尋ね者を村内に泊め置いたと目明方より御達されては、村方がめんどうなことになるから、内分にて泊め置いた喜兵衛に申し付けて孫四郎を追い立るようにするから、貴様(目明し)も内証にして見逃すように頼んだら、目明し伝蔵もその通りにするのがよいと承知して帰った。そして定使長七に喜兵衛を呼びにやり、喜兵衛が来たから其方孫四郎と申す者を泊め置いたと聞いたが、どういう関係があって泊めたのかと尋ねたところ、どういう関係もないが前に馬籠にいたときに、当村に参り一夜の宿借し申したことがあり、それでこの度も参り、私山に行き留守に女房共がいるので頼まれて泊めた。それより一両日いずれかに行き、今朝来て荷物を持ち坂下村へ立ち去ったという。太田代官所のお尋ね者であるとの事、そのような者を泊め置いたことが知れ後日お咎(とが)めを仰せ付けられては、其方は申すに及ばず、村中が「やっかい」なことになるに付、今後は絶対に知らぬ者など泊めてはならないと申し渡した。このように村役人と馴れ合いになったり、賄賂に左右されることもあった。