問屋・年寄

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近世の宿駅で人馬継立、休泊などの業務を行う宿の業務の最高責任者である。従って宿の有力者が選ばれるのが常である。時には庄屋や本陣を兼帯する所もあった。もとは年貢や商品など輸送し、人馬継立や旅行者の宿泊などを業としていたので、その名称も生じたのであるが、参勤交替制が確立したころから宿役人としての地位が明確になってきた。そして私的運輸業者の性格は薄れ、宿の業務を総括する地位になった。
 問屋は一宿に一名から数名いるところもあるが、木曽十一宿は各宿とも二名がおかれていた。問屋はその屋敷内か、近くに問屋場を設けて事務をとった。
 馬籠宿の問屋は初めは、両人とも原姓である。寛文一一年(一六七一)六月五日付の「妻籠蘭山論扱の証文」(『県史史料篇巻六』所収)に、須原村以南の村役人が証人となって署名している。馬籠村は原三郎右衛門と原太郎右衛門の二名が署名している。これからみると江戸初期の馬籠宿の庄屋・問屋は原太郎右衛門であり、これが月の一日から一五日までを勤める上問屋で、原三郎右衛門は一六日から晦日までを勤める下問屋であったとみられる。問屋の場所は二ケ所とも中町にあり、上問屋は太郎右衛門が居宅にて中町左側(江戸方向からみて)、現在の馬籠集会所の位置であった。下問屋は元禄八年より庄屋島崎彦兵衛が兼務し、問屋場は本陣の敷地内に設けられた。中山道の美濃路の宿の問屋は、寛永年間(一六二四~四三)には二名が任命されており、木曽十一宿も同様であった。
 問屋は公私の人馬継立や休泊に関係する宿駅の任務を掌握することと、宿内で起きた不測の事務の全責任を負うことであり、年寄は問屋の補佐をし、問屋が不在の時は宿を代表し公務の仕事を一切まかされた。したがって問屋と同格な取り扱いを受けていた。その他に年寄の職務として宿内の取締り、往還の掃除や宿内の見分などがあり、年寄の任務は多岐多様にわたっていた。馬籠宿の年寄役は四人であった。
(表)馬籠宿問屋・年寄の変遷