宿村の役人に対しては役料というものはない。『木曽村方の研究』によると、後に庄屋・問屋・伝馬役に対して藩から金殻の支給はあったが、これは公用を勤めていたために補助の意味の支給であって、役料とは性質が異なると説明している。
庄屋 一人に付玄米三石宛(享保一四年より)
本陣・問屋 屋敷地は享保八年までは無年貢地として特別の扱いを受けていたが、享保九年の検地後年貢付となり、問屋はその地子半分免除、谷中にては一石六斗四升下付されることになった。
元禄一四年(一七〇一)より、享保五年(一七二〇)まで一人に付二両二分宛下付。
享保六年(一七二一)より明治五年(一八七二)まで一人に付、一両二分宛下付。
伝馬役には享保九年(一七二四)より一宿に米五〇石宛補助。
宿村共、年寄・組頭は無給である。後に年寄に多少の手当を出した宿もあるようだが、一般的ではない。村により給金には多少の異同がある。
馬籠宿の宿役人の天保二年(一八三一)の給与は次のようになっている。
(表)
『宿村規矩細記録』(大黒屋三代大脇信親記)によると、馬指と定使の給与について次のように記録をしている。
元禄十年(一六九七)十一月福島於御役所被 仰付候、会所馬指定使之事、右ニ付給金給米定リ申候付、両問屋家より一札写左ニ被仰付候趣
一信濃馬蒔(まき)之口上まへ銭之義、寅之年より辰之年(元禄一一~一三年)迄三年之内三郎右衛門ニ□馬取其後巳之年より半月替リニ両問屋ニて永代取り可申事
一馬指之事両問屋方より永代相立可申事
一定使之儀両問屋方より金子壱両つゝ永代出し相勤させ可申事
右之通丑(元禄一〇年)、十一月於福島被仰渡候趣御座候
定使定之事
一定使 壱人 此勤方給分
御米壱石 旦那様(山村代官)より被下置候、
金子壱両 両問屋より出し可申筈
内弐分は 永代前金ニ出し可申筈
弐分は 春中ニ出し可申筈也
右之通相定申候処如件
元禄十年丑十二月 原三右衛門判印
嶋崎彦兵衛判印